パソコンで描く

「薔薇のスケッチ」

昨日のスケッチも、上の絵もパソコンだけで描いたもの。パソコンだけで描いたものは、これまでもたくさんこのブログにも載せている。これまではお絵描きを楽しんでいるだけだったが、コロナ禍のいま、パソコンのお絵描きをもっとまじめにやらなくちゃ、そう思い始めた。

「自作パソコン」でも紹介したように、私のパソコン環境もずいぶん変わってきた。それにともない、パソコンに対する私の態度も少しずつ変わってきた。1年前より、ずっと親しくなってきた(つもりでいるが)。それでも時折癇癪を起こし、マウスを叩きつけ、壊しては無駄な出費と反省を繰り返す。

私はパソコンの方が悪いと思っているが、息子に言わせると200%以上私の方に非があるという。実は、私のパソコンはかなり狡猾な奴で、息子が来た時だけ、実に素直に言うことを聞くが、彼がいなくなったとたんに、再び私に意地悪をする嫌な奴なのだ。とばっちりを受けているのがロジクールのマウスと机。彼らに罪がないのは分かっているが…ごめんね、マウス君、机さま。

パソコンがご機嫌の時は、なんでもすいすいと進み、パソコンがあることに感謝したくなるが、ちょっとでも気に入らないと、すぐへそを曲げ、小さなことをいちいち確かめてくる。「そんなこと、ちょっと考えればわかるだろ!」それがいけないのだという。なんでもハイハイと言うことを聞くのが、パソコンと上手に付き合うコツなのだとか。まるで2歳児だ。今に見ていろ、パソコンめ。お前もそのうち大人になれば、大人の苦労もわかるだろう。

「不要不急」とはなんだ

「薔薇に雨降る」

 「不要不急」とは、「急ぐ必要がないもの、必要そのものがないもの」という意味である。ほぼ、「無駄だ」と言っているようなもの。自分のことを言うのならともかく、他人の外出に対し「それは無駄だ」と言ったなら、場合によっては殴りあいになるほどの傲慢な態度とみなされるだろう。「不要不急」とは、ふつうは人が他人に言うべきことばではない。

 ところが現下の日本では、「不要不急かどうか」を「他人目線で判断せよ」と、暗に(時に露骨に)強制されている。話がすこし跳ぶが、「自粛警察」なるものがときおり批判される。しかし、批判の仕方がマスコミではなんと「行き過ぎた正義感」という扱い方だ。正義感だって?自分の尺度で、他人を脅すことを「正義感」と言っていいのか?一方的な狭い解釈にだけ人を追い込むような環境をすこしずつ醸成していく、農村的、村八分的、非近代的な「日本人」が彼らを駆り立てている。もう少し進めば、医師や夜間救急の救命士などは「必要至急」の筆頭格、それら以外はみな不要不急ということにさえなりかねない。かつての軍人以外はみな不要不急の人々だったように。

 「緊急事態だから仕方ない」。たしかに仕方なくなってしまった。けれど、今回の「緊急事態」は無策の結果、という面が小さくない。首相は「国民には厳しい要請」だと言っておきながら、なぜそうなったか、そのためにどんな手を打ち、緊急事態宣言がどのように推移するかの見通しさえまじめに語ろうとしない。都合のいい時だけ科学者をつまみ食いするばかりで、彼らと真剣に議論する気持を持ってさえいないように見える。外出自粛とGoToキャンペーン、会食自粛とGoToイートの間の整合性にも頬かむりしたままだ。

 毎度のように「丁寧な説明」「説明責任」と口では唱えるが、結局は「説明は控えさせていただく」の繰り返し。夜8時以降の飲食店閉店と言ったかと思えば、昼間の外出、会食も控えるようにという。飲食店はみな潰れろと言わんばかり。出勤する人の7割削減。どうやってそれを達成するのか、すべて国民に丸投げだ。それが菅政権の掲げた「自助」の真意か。それが「国民のために働く内閣」の実態か。それを何の批判もなく「コロナだから」とすんなり受け入れる国民の「物わかりの良さ」よ。

 菅首相が、口ごもりながら「国民健康保険の見直し」に言及した。自民党の一部には堂々と、憲法から「基本的人権」条項を抹消すべきだと主張する議員たちがいる。すべての国民の楽しみを戦争のために犠牲にさせたこの国の過去への真摯な反省も無しに、「不要不急」とは、コロナ禍のどさくさに紛れ、国民の権利はく奪のために計算づくで挿入された、「大本営的」官僚語だと私は怯えている。 

21個のヒメリンゴ―“チャンス?”

「21個のヒメリンゴ」 2020.11

失敗作のビデオです。手を動かしても普通に見えるようになるはず、と計算したつもりだったが、あとから考えると映像の基礎知識がずどんと抜けていた。しばらく放置していたが、失敗も面白いと考え直した。

油絵や水彩画を描くことと、パソコンで絵を描くこととのあいだに本質的な違いはない(はず)。水彩絵の具を使えば水彩なりの発想をするし、油絵具を使えばそれに対応した感じ方をする。パソコンを使えばパソコンなりの発想があるだろう。そこに流れる感性やものの考え方が、道具次第で別人になるわけではない。

とはいえ、実際に使ってみるとずいぶん勝手が違う。特にパソコンは実材(実際の材料)ではなく、あえていえば架空の材料で絵を描くものだから、「絵」という言葉を辛うじて共通させているだけで、正直に言えば私にとっては別次元のものに感じられる。パソコンは知識の塊だから、私のように感覚的な人間には、ときにはいらついて放り出したくなる。

それでもある瞬間には、絵の具をまぜるとか、乾燥を待つとかの手間なしに、すっと自分の頭の中の映像を表現しているような気持になることもある。絵を描くということにとって、道具の違いは本質的なものではない、と書いたばかりだが、でも、待てよ。それは、これまで空気に触れてこなかった私の中の、私自身も知らなかった部分が露出、研ぎだされているということではないのか。そこに新鮮な自分を見つける”チャンス”があり、それを引き出すのは道具の力なのではないか。そんなことも考えながら、いろいろやってみる。