近くのスーパー閉店

「若い人」 水彩 2021.3

近くのスーパーが今日閉店した。自宅から歩いて10分くらいの一番近いスーパーで、コンビニに近い感覚で買い物に行っていた。十日くらい前から閉店のことは伝わってきていたが、どんな状況かなと夕方覗きに行ってみた。

妻は数日前から「棚にほとんどモノがなくなった」とか「生鮮食品はふつうにある」とか言いながら何度も様子見に出かけていた。いよいよ閉店の今日、夕方何か安くなっているのではないかと一緒にでかけたが遅かったらしい。入場制限がかかり、列に並んでから店内に入ると、ほとんどの棚に「半額」の札があるだけで、肉や一部のお惣菜以外の品物はもうほとんど無くなっていた。

わたしは商品の無い棚や右往左往する人々の写真を数カット撮った。閉店の理由も今のところ分からないし、新築?新装?開店するのか廃業なのかも分からない。コロナの影響があるのかそれもわからないが、閉店という言葉がどことなく暗いイメージと結びついてしまう世代のせいか、混み合う店内の人々と空の商品棚とのギャップをことさら意識してしまう。若い人たちは次の情報をキャッチしているのか「今までありがとう」とか、明るい声で店員さんたちに声をかけている。

小さな店の閉店はニュースなどでも耳にするが、それなりの規模の店が目の前で閉店するのを見る経験はあまり多くなかった。いろんなことがそこに象徴的に重なってかすかなショックを感じていたように思う。ノスタルジーとかいうのではなく、これから起きていくことがらの目に見える一歩のような不安というか。

今日の提出課題

やれやれ、やっと今日の課題提出だ

今日の課題は、「マスクレイヤー」と「クリッピング・マスク」の復習。パソコンで絵を描いたりしない人には何のことかわからない単語だと思うが、やっているわたし自身もまだよくわかっていないので、わかりやすい説明などは無理。描画アプリの中にそういうツール(道具)があって、それを使えばこんな効果になる、とだけ言っておこう。

一つのテーマを決め、参考になる動画を探して真似をするのが目下の勉強法。そのあと、その応用課題を(できればその日のうちに)作ってみるのが目標。それがなかなかできないばかりか、そもそも動画をちゃんと見ることさえ出来ていないことが分かってきた。

もちろんYouTube などにある動画のほとんどは編集されたもので、映像のコマとナレーションが合っていなかったり、見たいところが早送りされていたりして困る時もあるが、なにより、あまりにも自分の知識が無いために、現実に目の前に見えているのに「見えていない(意識されない)」のである。何度も繰り返し、しっかり見たはずの動画を後日改めて見ると、あれっ?こんなカットあったのかぁ、などとがっかりすること多々。

1年前の動画だと、もうツールの機能までガラッと変わっていることもある。まさに「日進月歩」。一つを覚える前に次の次までできているという按配で、ため息をつき始めると果てがない。「コンピューターを使いこなせる人などいない」「せいぜい特定の分野だけ、なんとか追いついていける人がいるだけだ」という人がいるが、きっとそうだろう。たくさん覚えるのはもう無理だとしても、もうちょっと分かれば、もうちょっと面白い発想ができるかもと、かすかな期待はあるが。

ただのデザインじゃないか

初夏の Apple  (CG)

この絵を見たら「ただのデザインじゃないか」という声が聞こえてきそうだ。デザイナーからは「ただのデザインの『ただの』とは何だ」という声も同時に聞こえてきそうだ。

わたし自身も、これじゃ「デザイン以前」だと思う。たいていのデザインにははっきりした(社会的、商業的)な目的がある。一方、(現代の)絵画にはそういう意味での目的はないが、作者個人の生存意義を深め、「社会との違和感」を作り出すことによって(広い意味で)社会の変革を促す力になる。それが絵画だとするならば、ずいぶん薄っぺらく、とてもそんな力などどこにも入っていないように感じるだろう、ね。

そう、「薄っぺらい」よ。人々が「絵画(芸術)」に求めるものは「人生」とか「哲学」の深さ、重厚感だろうが、これはペラッペラに「薄っぺらい」。「これを『絵』だと言うこと自体、お前の薄っぺらさを示している」というお怒り。ごもっともでござんす。

反論などござんせん。でも、あなたの健康に悪いので、もうちょっと落ち着いて血圧を下げてもらって、いましばらく我慢しておくれやす(我慢のお駄賃はでまへんが)。