無題−2

無題ー2

Adobe社のFrescoというアプリにアニメの新機能が加わった、というニュースを10日前に知ったが、やっと昨日試すことができた。これがたぶん4個目くらいの試作だが、やっていると、「なんでこうなるの~!?」ということがいっぱい出てくる。1つ覚えると4つぐらいそんなのが出てくるが、それを繰り返しながら一つ一つ覚えていくしかない。道具の使い方を覚えるというのはそういうものだ。

この動画ももっと面白い動きがあったのだが、自分でも分からないうちに削除してしまったらしい。自分が何を削除しているのかさえ、よく分かっていない(今も)。これ以上なくならないうちに、とりあえず、お目にかけておくことにした。

こういう動画を時間かけて作るのがバカバカしいと思う人はいるだろう。わたしも薄々はそう感じながらやっているが、「それを言っちゃあおしまいよ」と誰かのセリフを頭の中で繰り返しながら、黙々と何時間もやっている。他にもやることはいっぱい溜まっているが、もう少しやらないとそれこそ無意味になってしまう、とか言って。

動画の内容に意味はまったく無い。けれど、逆にその無意味さに救われる。繰り返し見ているとなぜか笑ってしまう。そして、無意味な動画作りが無意味なのではなくて、やらなくてはと思っていることの方が何だか無意味なように思えてくる。結構まじめに描いては再生、描いては修正しているうちに、自分がこのドタバタのなかに入りかけてくる。もう少しクルッと回ろうかなとか。

いま「ポテトチップス」?

Calbee Craft ポテトチップス (紙に鉛筆)

先月末、水彩クラスで「ポテトチップス」をモチーフにしてみた(その周辺のことはすでにこのブログに書いた)。これまでの「伝統絵画的モチーフ」からいきなりポテトチップスでは、生徒さんはまごつくだろうし、わたしにしても、これまでのモチーフで描いてきた絵とポテトチップスとの関係を、定義・確認しておく必要があるだろうと思ったので、実施の前に(iPadで)自分でいくつか描いてみた。そうして、世の中はモチーフだらけ、というか、モチーフの中に住んでいることにあらためて気がついた。

旅先で珍しい食べ物とかがあったりすると、今なら多くの人がインスタグラムなどで“すぐ”(不特定多数の人々と)共有することができる。が、ほんの10年前でも、そのようなかたちで(せいぜい)友人、知人と共有するまでにはかなりのタイムラグがあった。それには写真を現像、プリントして友人に郵送するなどしか方法がなかったような気がする。

共有するにはまず写真か文章(手紙)が必要だった。絵を描ける人ならそれにもう一つ「スケッチ」という武器がある。けれど、多くの人にとって、写真やスケッチの90%以上は記録のためであったと思う。だから、スケッチも絵の一つであるという認識はあっても、頭のどこかに「それは(本格的な)絵」のための、あくまでメモのような次元をこえるものではないというハードルを設けていた。
―「ポテトチップス」などは、そういう意味での記録的興味の対象ですらなかった。そこらじゅうにあふれ過ぎていて、あえて“記録する価値”が見出せなかったからである。それに「安っぽく」見えた。ただ、いかにも人工的、現代的な商品という外観は、ポップアートを持ち出すまでもなく、自分の中でも「これらを抵抗なく描いたら、そこから(自分の)新しい絵が始まるかもしれない」とは思っていた。9月に「青いカモメ展」が終わり、生徒さんの中にも、何か新しいことをやってみたいという気持ちが湧いてきていたところだったようで、「今がポテトチップスだ」―ちょうどいいタイミングで始める事ができたのだった。

水彩、油絵にも「いきなりポテトチップス」。そんなわけで鉛筆デッサンにもポテトチップスである(描き方は極めて古典的、オーソドックスだが、これは生徒さんの希望である)。現在の「高校の美術部」とかなら「え~っ、今ごろ~!?もう終わってるよ!」だろうけど。―それはともかく、実際に描いてみると案外に面白い。(本格的な)絵にならないどころか、これこそ「絵になる(すべき)」素材ではないか、とも感じてきた。

お菓子の棚はデザインの宝庫

チョコラスク

一昨日シャトレーゼで買った、クリスマス用ギフト用?のラスク。アイスを買うというので久しぶりにわたしも店内に入ってみた。そこで包み紙の綺麗さに惹かれて買ったのがこれ。今朝(11/7)の4時過ぎまで、10時間以上かかってCGで描いた。

家族は毎日アイスを1~2本食べる。わたしは一年に1本(個)食べるかどうか。冷たいものが苦手(夏場の冷やしそうめんは別)である。お菓子類もあまり食べないから、スーパーでもそういう棚には近寄らなかった。興味なかったのである。

最近、絵のモチーフを広げようと、そういう棚に積極的に足を向けるようにした。そこはデザインの宝庫である。食べ物、飲み物という商品は、まず買う人の目を引かなくては手にとってもらえない。メーカーにとって、そこが死活の第一歩だから、デザインには最大限気を遣うのも当然だ。高級品には上品なデザインが必要だし、安売り商品にはそれなりのアイキャッチが要る。

他人のデザインを自分の絵には使えない。それが創作上の鉄則である。わたしがお菓子類の棚に足が向かなかった理由の一つでもある。けれど、「練習・勉強専用」の「教材」と割り切って考えることで、安くて、豊富で、さまざまなアイデアに満ちた、巨大で常に新しいストレージをそこに見出すことができた。これを使えば、まるまる一部屋以上のスペースを楽器だの壺だのに占領されることはなくなる―はずだがどうだろうか。