強風のあと

たくさんの実が落ちている。これはクサギかな?
タイサンボクの実を拾ってきた
カワトンボは大好き。なかなか写真に収まってくれない
コブシ(モクレン科)の実。花は知っていても、なかなか実までは見ていないものです

数日強い風が続いた。ウォーキングも億劫になり、数日ぶりに行ってみたら、あちこちに木の実が吹き溜まりになっていた。植物はもうすっかり秋の準備完了だ。植物は「時節先取り」、まことに手際が良い。わたしのような、計画性のない人間には、まことに敬服すべき存在である。

夏が来れば思い出す

「鬼灯(ほおずき)」  ペン、水彩+CG

夏が来れば思い出す、さまざまなこと。数十年前の子どもの頃のことを突然思い出し、ああ、あれはこういうことだったのか、と(記憶が創作されているのかも知れないが)初めて理解できたような気がすることがある。

当時の自分を客観視できるようになったということかどうか、にわかには言えないが、子どもには見えない「感情」や「関係性」といったようなものが、年を経て、理解できるようになったこともあるだろう。その一方で、子どもでしか感じられなかったことも、たくさん抜け落ちてしまっているに違いない。それが年月というものか。
 見えるはずもない当時の自分自身を、一枚の写真のように鮮明に見ることができるのも、長い絵画の訓練のたまもの。これもまた年月か。

あとひと月もしないうちにお盆が来る。特別な思い出というものはないが、「お盆用の棚を作れ」と両親に言われ、弟と二人で、隣のお墓に作られた盆棚を真似て、それぞれに込められた意味も解らないままに作っていたことを思い出す。弟は毎年、今でもそうやって同じように作っている。
 飾り用の鬼灯は、ちょっとだけ贅沢品でもあり、ハマナスの赤く熟した実を、鬼灯の代わりに紐で吊り下げたりした。他愛のないことを思いだすものだ。

さっぱりした空だ

「夕焼け・駅近く」  水彩・ペン (後日YouTubeにて制作過程を公開予定)

ここしばらく続けた「夕焼け」シリーズ?も、ここで一区切り。この絵の制作過程は後日YouTubeに載せるので、そちらもぜひご覧ください。絵の「出来具合」は、「頑張ってはみたよ」ってとこかな。でも、褒める(べき)ポイントをこっそり教えておくヨ。前回、同じテーマで描いた「試作」より、空がすっきりして、軽いでしょ?それが今回の(自分自身の)テーマだったから、それなりに工夫したんです。そこはまあまあかな。―覚えた?

話はガラッとかわるけど、いま世界史が面白いんです。ウクライナ戦争までをも面白いと言ってしまっては顰蹙を買いそうだけど、プーチンの言動を見れば、多少でも歴史を見なければ理解は始まらない、と誰しも思うよね。トランプの関税問題も、ガザに対するイスラエルの行動にしても、なぜエジプトやサウジなどのイスラム国家が(本当は受け入れたくても)パレスチナ難民を受けいれられないのか・・なんてところまで、一見別々のことのように見えて、実はみんな意外なところで繋がっているんだよね。人間のやることだから当然といえば当然ともいえるけれど。
 世界史なんて、コロンブスの「世界を見て歩きたい!」っていういま風の企画を、当時のスペイン女王イザベルが「素敵、素敵!やってやって‼ゼッタイ応援する!でも必ず何かお土産持ってきてね!」と言ったかどうかは知らないが、そんな身近なところから歴史が始まったような気さえしていたが、少なくとも人類が文字を発明した時には、もう「世界史」が始まってたんだよね。

二転三転。「美しい」とか「美学」というのは、動植物にもあるものだろうか?わたしは「ある」と思っている。「人間だけが美を感じることができる」などと思うのは、単なる傲慢に過ぎない、と感じてもいる。だって、虫を呼び集めるためだけなら、なんで花はあんなにきれいで、しかも超多様なの?その多様さそのものの意味を説明できないでしょう、たとえ植物学者でも。素敵な家族の窓辺に飾られるためなら、花だってお化粧くらいはお手の物。「自然」だって、ちゃんとアートしてるのさ。