青柿のスケッチ

     「青柿」  水彩

今日はぐずつき気味の天気だったが、涼しいのは良かった(人によってはかなり冬支度に近い人も診かけた)。青柿が、赤い柿より絵になりやすいことは先日書いてしまったので、今日はそれについては書くことがない。とりあえずスケッチを載せる。青柿だから、柔らかくなりすぎるとか、食べるための心配は無用だから集中できる。

たったこれだけのスケッチでも、意外に時間がかかる。そして面白味がない。だからスケッチなどしない、と言う若い画家たちの話もすでに書いたことがある。それも然り。とくにわたしなどは、発表する作品はもっとずっと単純なかたちで、誰にでも描けそうなものを目指しているから、スケッチとのギャップはなおのこと大きい。

けれど、それを無駄だと思ったことはない。むしろ、年に数回の発表より、そういう普段のことの方が大事だと考えているから、たぶんこういうふうに正面から見えるように描いてみることが、自分にとって本質的なことなのだろうという気がする。

一生に一度も個展を開かず、一枚も絵を売らない画家もいる。だからといって、その画家を「単なるアマチュア」と言っていいかどうか。その画家が亡くなった時、多くの(それなりに知れた)画家たちが、作品を貰いに来たそうだ。

これじゃ魚は釣れない

          「ベビーシッター」  水彩

謎めいた絵になった。悪い意味で。もともとこの場所がやや現実離れした(実際は東京某所)謎めいた情景ではあったのだが、あれこれ理屈をつけて解かりやすくしたつもりでも、怪しい雰囲気までは解消しなかった(怪しい雰囲気自体はもちろんあってもいい)。

絵を描く人はすべてのモチーフをちゃんと解ったうえで描くものだ、などと出来そうもないことを言うつもりはないが、こんなモヤモヤはだめ。よく分からないことを、わからないまま描いているから、見る側にもそう伝わっている。

一番奥に、子どもが一人立っている。それがこの絵のヘソかな。構成上、画面の遠近法の焦点にいる。左手前、右の二人と、見る人の視線はジグザグにこのヘソに至る(はず)。この仕掛けによって、多くの人はきっとこの子の顔を見たくなるだろう。計算式はよかったが、それぞれの要素がどれも曖昧。これじゃ魚は釣れないな。

青い柿

柿はよく絵の画題にされている。小中学生の図画工作、美術の授業からアマチュアの画家たちの制作まで、手に入りやすい画材で、しかもそれを食べてお終いにできるというおまけ付きだからなおさら。

でも、みんなが描くということは、それがありふれ過ぎているということでもある。どんなに上手に描いても、それだけではもうインパクトがない。高名な画家たちは美味しそうな熟した色の柿を避け、あえて青柿を描いた。日本画家の小林古径「青柿」などはそういったなかの名作のひとつだろう。

青柿をしげしげと見る人は、柿の生産農家や家族用の庭木として育てている人以外にあまりいないと思う。一般の人にとって、柿とは商品になってスーバーに並んでいるものであって、画家たちは逆に、商品になった(なってしまった)柿などに画題としての興味がなく、まだ手つかずの、それも商品価値のまったく無い「青い柿」にこそ、ナイーブな芸術の香気を見出した。
 一方、「アイスクリーム」「天ぷら」など、人の手で加工された「商品」を、今の若い人たちはむしろ「新しい画題」として正面から捉えている。コマーシャルアートとしてではなく、純粋なアートとして。「お弁当」とか「ラーメン」を画面いっぱいに描かれた作品を始めて見たころは「こんなものを描く気になるのか」という衝撃を受けたものだったが、今ではそれすら古典的な感じさえしてきている。

さて画題としての「青柿」はこの先どうなるだろう。伝統的画題のままやがて描かれなくなって終わるのだろうか。かつての画家たちが感じた「ナイーブな香気」を、わたしもまだ少しは感じる派なのだが・・。