「無意味」をジャンプする

スケッチブック

人生の残り少なくなった時間で、なるべく「無意味」なことはしたくない=意味あることをしたい、と考えていた。その一方で、生きるということにもともと意味なんかないという考えも、高校生の頃からわたしのなかに常に一定のスペースを持っている。

そして、都合よくどちらかをオン、オフにしてその場その場で自分を納得させてきた。それは2つの考え方が互いに矛盾すると思っていたからだが、実は、それは同じものなのだと年を取るごとに思えてきた。どちらもオンにすることが可能であるというのではなく、むしろどちらもオンでなければ、一方だけでは成り立たないことが解ってきたからだ。

まず、無意味=意味のないこと、ではなく、それははるかに「積極的な」空白(空間)だということ。絵を描くためには白いキャンバスが必要だ、と考えてもらえば解りやすい。もう一つは「誰かにとっての無意味」は「他の誰かにとっての有意味」でもあるということ。「誰にとっても意味あること」、そんなものはあり得ない。迷信か、あるいはある種の洗脳の結果(たとえば「教育」という名の)に違いない(この意味では、教育の功罪はもっと深く冷静に(国家単位などという小さなものではなく)常に吟味され続けるべきだと考えているが、ここはそれ以上を述べるのにふさわしい場ではない)。

創作の場では、「意味」は常に否定されるところから出発する。ひとつひとつの意味はすべて一度否定される。ヘーゲルではないが、名作は名作ではない。美しいものは美しくない。そこからしか創作は船出することができないのだ。「そんなこたあ、言われなくたって知ってらあ」と、巻き舌の江戸弁で軽く返されそうだが、確かにその程度のことなのに違いない。でも、もっと大事なのはその先で、さらに積極的に「無意味」をどんどん創り出すことだ。そのことによって生きること。誰かに意味づけられた人生をジャンプするには、それしかない。

澄んでいること

ビー玉とりんご

透明なものに、なぜか人は心を惹かれるようだ。「宝石」はまあ特別としても、ガラスが玻璃と呼ばれ、宝石以上に珍重されたらしいことは、奈良正倉院のペルシャガラスが今に伝わっていることからもわかる。古代インドあたりに栄えたムガール帝国のムガールグラスにも、決して現代のガラスのように透明ではないが、やや乳白色がかったぼんやりした反透明感にも、えもいわれぬ魅力を感じたことを思い出した。

「透明」と「澄んでいること」は同じではないが、共通したイメージはある。さらに想像をつないでいくと「澄んでいる」と「濾過された」も意味が近づいてくる。濾過された水は美しく、透明であるが危険でもある。栄養分すら取り除かれてしまい、「水清ければ魚棲まず」となることもあり、透明に近い血は死の危険性が香る。

完全に透明なものは目に見えないはずだから、そこに光が反射したり、屈折があったり、ほんのすこしの淡い色があったりすることで「透明」と意識される。それは澄んでいることにつながり、長い時間をかけて「濾過」された水のイメージにもつながってくる。川底の石が見える清流に心を癒されるのは、そういう時間を経た安心感にも依っているに違いない。

澄んでいるものはどれも儚(はかな)い。簡単に汚されてしまう、貴重なもの。なるほど、わたしたちの心の鏡のようなものなんだ。それは純粋でありたいと願う精神とも深くつながっているだろう。大事なものを見るには澄んだ目が必要だ。そうだ、そのことをもっと大切にしよう。

はだか

わたしははだかが好きだ。「ヌード」という意味でも、ストリップ(何も身につけない)という意味でもない。赤ん坊のような「はだか」。その意味でなら、「はだか」を「裸」と漢字で書いてもいいし、その発音も好きだ。

でも、そうでない意味で使われる「裸」は嫌いである。

はだかになるのは難しい。人前でストリップになるのも難しいが、赤ん坊のようなはだかになるのは、もう一生できないことなのかもしれない。どんな赤ん坊も、はだかが一番よく似合う。あのようになりたい、いや、あのようになりたいと思う心を大切にしたい、と思う。

すべすべが良いわけではない。つるつるも不要だ。そんなものより、むしろ鋭いトゲトゲのある方が美しい。刺されたことにさえ気づかないほど繊細な棘、敏感でときに痛々しいトゲもいい。少し鈍く、擦り減ったようなとげも好もしい。窓辺のサボテンたちを見ていると飽きない。