鮫はなぜ美しいか

スィートピー制作中

あなたは鮫が好きですか?わたしは子どもの頃からずうっと好きなんです。鮫にもいろいろな種類があるけれど、例外なく好きなんです。

子どもの頃、わたしにとって鮫は食べ物でした。今から考えると、わたしの実家では、わたし以外はあまり鮫を好まなかったようですが、わたしはよく食べました。魚好きだったわたしにとって、のどに刺さる小骨のない鮫は、安心して食べることができたからです。蒲鉾にするような大きな鮫ではなく、せいぜい1メートルくらいの、歯のない小さな鮫です。でも、それが鮫が大好きな理由ではありません。

鮫は、かたちも色も生活の仕方も好ましい。あの“JAWS” でその凶暴性が知られるようになったホホジロザメ(ホオジロザメ)ももちろん例外ではありません。好きな理由を考えてみると、①かたちや色の美しさ ②その美しさと優れた身体能力との神秘的なまでの一致感(鮫も実はマグロや鯛などとほとんど変わらない普通の肉食魚です。「凶暴性」なら、鮫以上の魚はいっぱいいます)、あたりでしょうか。

鮫ほど優雅で、身体能力が高く、奥ゆかしく、かつ好奇心にあふれ、お茶目でかわいい顔をした魚は他にいません(恋人の、あばたもほくろもすべて素敵と言っているようなものですが)。そんな鮫を人間に喩えたらどんなひとになるでしょうか。わたしには少なくとも政治家に喩えることはできません。けれど、政治家にこそそういう資質があってほしいと、いつも願っています。

波が立っている

波しぶきの表現はCGによる(制作中)

波は目の前に立っている
見上げるほど何段にも重なって
そこから風がびゅうびゅう吹いてくる
また一段
波が重なった

ドアも窓もすでにない
いつのまにか波に向かって歩いている
膝までの水の中を

もう引き返せない
けれど、もう進むこともできない
波はますます高くなって
僕を見下ろしている

とりあえず、僕は手を洗う
顔を洗い、耳を、眼を洗う
そうして波の中へはいっていく

朝、目覚めにこんな詩が浮かんだのでメモをしておいたもの。

「無意味」をジャンプする

スケッチブック

人生の残り少なくなった時間で、なるべく「無意味」なことはしたくない=意味あることをしたい、と考えていた。その一方で、生きるということにもともと意味なんかないという考えも、高校生の頃からわたしのなかに常に一定のスペースを持っている。

そして、都合よくどちらかをオン、オフにしてその場その場で自分を納得させてきた。それは2つの考え方が互いに矛盾すると思っていたからだが、実は、それは同じものなのだと年を取るごとに思えてきた。どちらもオンにすることが可能であるというのではなく、むしろどちらもオンでなければ、一方だけでは成り立たないことが解ってきたからだ。

まず、無意味=意味のないこと、ではなく、それははるかに「積極的な」空白(空間)だということ。絵を描くためには白いキャンバスが必要だ、と考えてもらえば解りやすい。もう一つは「誰かにとっての無意味」は「他の誰かにとっての有意味」でもあるということ。「誰にとっても意味あること」、そんなものはあり得ない。迷信か、あるいはある種の洗脳の結果(たとえば「教育」という名の)に違いない(この意味では、教育の功罪はもっと深く冷静に(国家単位などという小さなものではなく)常に吟味され続けるべきだと考えているが、ここはそれ以上を述べるのにふさわしい場ではない)。

創作の場では、「意味」は常に否定されるところから出発する。ひとつひとつの意味はすべて一度否定される。ヘーゲルではないが、名作は名作ではない。美しいものは美しくない。そこからしか創作は船出することができないのだ。「そんなこたあ、言われなくたって知ってらあ」と、巻き舌の江戸弁で軽く返されそうだが、確かにその程度のことなのに違いない。でも、もっと大事なのはその先で、さらに積極的に「無意味」をどんどん創り出すことだ。そのことによって生きること。誰かに意味づけられた人生をジャンプするには、それしかない。