私の中のジャングル

シェルターの男 ミクストメディア F4 2011

民主党の野田政権が発足。ホオーッ!という感じだったが、まあそれなりかなと思う。その中で細野剛志原発担当大臣が再任。「この仕事をやりたい人は誰もいない。(私も)なにが何でもやりたいという気持ちは微塵も持っていない」。何ですか、この発言は?誰もやりたい人がいないから仕方なく(嫌々)やるという意味でしょうね?もしもポストに汲々としているわけではないと言いたいのだとしたら、あまりにも言葉足らずだ。京都大学の法学部出身で、現三菱UFJ総合研究所のリサーチ&コンサルティングの研究員をスタートとするキャリアにしては、中学生レベルの政治感覚しかない発言だなと思う。新内閣の閣僚インタビューという場の認識があるのだろうか?思えばこの国の政治家の、自分の言葉に対する政治感覚の欠如ぶりには呆れるというより恐怖を感じる。こういう連中が海外で何を喋っているかと思うと恐ろしいが、幸い?にして大多数はほとんど英語が出来ないらしいから安心?

政治など庶民の生活には関係ないやと目先のことにかまけた結果、私たちが生み出した政治貴族たち。彼らもまた庶民なんか関係ないや、と思っているのだろう。おあいこだとしたら、あまりにも哀しい現実だ。リビアやシリアでは若い人たちが命をかけて新しい政治、自分たちの政治を作ろうと戦っている。勝っても厳しい前途だが、その息吹はまるで幕末の志士達にどこか通じるようだ。世界はまだまだ若いのだ(逆にいえば日本はもう老いくたびれてしまったのだ)と、彼らの貧しさの中にもある種の羨ましささえ感じさせられる。

話題は180度近く変わる。ここ数年、得体の知れない怪物ともつかぬ、巨人のような 「男」と題する作品を発表し続けている。いつだったかギャラリートークで、その巨人の解説をした。毎年同じ話をするのもつまらないのでその後は内容を換えて話しているのだが、その時の解説で言わなかったことが(実は言いたくても言えなかったのだが)、ずっと私の中で反芻を繰り返している。「どうしてこういう絵を描くようになるのだろう?」ということだ。

それは表現の意図とか、内容とかいうものとは全然違う。ここ数年続けていると書いたが、さらに事実を言えば小学生の頃から既に今のような絵は時々だが描いていた。数年から十数年の間隔を措いて私の中に現れる、グロテスクと人に言われる絵。そのことが何を意味するのか私にもまだ分からない。だから人にも説明しようもない。自分の中の未知の部分を知りたい、あるいは未開の部分に入り込むのを畏れるような、そんな気持ちをずっと持ち続けている。  2011/9/2

バランスのいい食事(2)

ヤマボウシ 水彩 F4  2009

人間(に限らないが)は(将来は分からないが)食事を欠かすことが出来ない。生きることと食べることとは不可分のものだから、古来からたくさんの経験や考え方が蓄積されてきた。すべての文化の中心に食があるのは当然と言えば当然である。

その歴史の中で「食をカロリーとして捉える」という考え方は、極めて特殊である。ごく素直に考えれば、おいしさを味わいながら、食べたい分だけ食べるというのが理想の食事観だろう。つまり、見た目や匂いや味を中心に考える、感覚的な判断に依る方が普通ではないか。そこにカロリーや栄養素という、感覚で捉える事の出来ないもうひとつの判断基準を持ちこんだのが、現代の食事観ということになるだろうか。

さらにもう一度素直に考えれば、カロリーや栄養で食事の質、量を規定していく考え方は食生活の習慣による病気が次第に知られてきた現代に合わせた、別の言い方をすればお医者さんの側(行政側からも)からの発想と言えるのではないか。楽天的な発想ではないが、健康観、幸福感が変わってきたことに対応しているということだろう。ともかく板前さんからの発想ではない。

現代において「バランスのいい食事」と一言でいえば、この感覚的な食事観と医学・予防的な食事観とのバランス、そしてカロリー中心に偏ってはいるが、栄養とカロリーのバランスのいい食事ということになるだろうか。

いささか結論を急ぎ過ぎだが、そういう意味でバランスのいい食事と言えば、実は糖尿病食(という言い方は正しくないのだが)だということを再認識したと言いたいだけなのだ。かつての糖尿病食は「不味いが病気治療のためには我慢するしかない」と言われたらしいが、最近は相当に工夫され、味覚的にも量的にも十分満足するように思われる(少なくとも私には)。何より、体から無駄なものが抜けてスッキリしていく感覚は小気味良いものではないか(と想像する)。

貧しい食事だと誤解していた糖尿病食こそ、実はバランスのとれた健康食であることに、恥ずかしながら全くの無知であった。バランスのとり方、考え方もまるで自分を主人公にしたゲームのようだということも初めて知った。

覚えたての知識をひけらかそうというのではない。その反対。私の食事をそのバランス感で見ると、実に滅茶苦茶なものだ。よくもこれまで大した病気もせずに過ごしてきたものだと、運とDNAに感謝するばかり。知らないということは恐ろしい。  2011/9/1

バランスのいい食事(1)

清流  F4 水彩  2010

七月にメタボ検診を受けた。結果は腎機能に問題あり。その他のデータは受診するたびに良くなっていたのでちょっと驚き。幸手市では腎機能検査の導入は今年からで、昨年までのデータは無かった。検査があればもっと早くに気をつけていたのにと、ちょっと残念だがそんなことを言っても仕方ない。

首と腰の計4か所にヘルニアがあるので、体重が増えるとぐんと負担がかかる。医者に言われているのは体重コントロールと腹筋、背筋の強化。初めはどれも緊張気味に努力したが、最近は体重コントロールのみ。

体重コントロールはどこかゲームのようで面白いのが、続いているもうひとつの理由かも知れない。腹筋、背筋の強化は、何かの試合でも目指すのでなければ、継続はちょっとつらいのにひきかえ、こちらは食事や運動その他の数字の組み合わせと意思のマトリックスだ。自分の気持ちと体の客観視、一種のゲーム感覚がある。

数日前から、糖尿病患者のための食餌療法の本を読んでいる。患者の方には当たり前すぎてつまらないかもしれないが、食事に関してなかなか面白い考え方だと感心するところがある。

「食品交換表」という名の一種のデータブックがその食餌指南書であり、辞書でもある。一つの食餌療法の体系がその本に集約されているのだが、その指南書を有効にする大前提として、お医者さんと管理栄養士と患者が三位一体となって、「健康」という果実を得るためのチームを必ず組まなければいけないことになっている。そこでは「健康に生きる」ための食事をまず「カロリーとして捉える」視点を設定する。一日何カロリーで過ごすべきかを医者が決め、そのカロリーの割り振りと献立を管理栄養士が担当し、患者が最終的に実施するという役割分担がある。じつにシステマチックだが、もちろんそうでなくては病気など克服できるはずもない。しかし、面白いのはここから。

まず、そのカロリーを「単位」化して目で数えられる形にするのがこの食餌療法の要である。80kcalを1単位として、たとえばご飯50gが1単位で、食パン六枚切1枚の半分も同じく1単位とするということでイコール化、視覚化して交換可能にするわけだ(食品交換表という名前はここから来ている)。数年前には盛んに言われた「見える化」を少なくとも50年以上前に、日本全国で(本当は世界的に?)実践的にやっているわけで、企業の現場より医療現場の方がその意味では数段進んでいたことに、まず驚かされる。

食品をただ眺めて、好きなものから食べるなんて非科学的な食べ方は基本的に禁止である(何といってもこの本は糖尿病患者を対象にしているのだ)!食べ物はそれぞれの栄養特色ごとに分類し、表1から表6までに振るい分けられる。表1は穀物・炭水化物、表3は肉・タンパク質、表6は野菜・ビタミン、ミネラルという風に。管理栄養士は先ほどの「単位」と組み合わせて、患者の必要カロリー数を単位化する。例えば1600kcalが必要ならば1単位80kcalだから割り算して20単位の食品を取ることに換算するわけだ。そしてさらにその20単位を表1から10単位、表3から6単位などという風にして、表1から表6までのなるべくすべてに亘って摂取するよう指導する(均等にという意味ではない)。患者の状態に合わせ単位数と表を組み合わせる。

この組み合わせの的確さが、患者の健康回復を左右する。患者の意志の強さも見極める必要もありそうだ。数字と科学と人間心理のマトリックス。そのままゲームの本質ではないか?(この項後日に続く)