稀勢の里は相撲協会の犠牲者でもある

 

横綱・稀勢の里が昨日から休場した。このままでは引退しかないと思っていたので、ある意味ホッとした(引退しない方がいいという意味ではない)。

稀勢の里のファンではない(ここ数年は安美錦、1年ほど前からは御嶽海のファンだ)し、彼自身の下半身の鍛え方に大関時代から疑問を感じているが、それとは別に、彼の為に一言弁護しておきたい気がする。

一言で言えば、横綱にするのが早すぎた。横綱昇進には内規があり、原則2場所連続優勝およびそれに準ずる成績が必要だ。「ここ一番に弱い」稀勢の里の場合、昇進となった場所中にも比較的厳しい条件が横綱審議会、報道周辺でも取り沙汰され、「仮にこの場所で優勝してもすぐには…」と言ってた筈が、棚ぼた絡みの優勝したら、とたんに「優勝したんだから、いいじゃないか」「白鵬に一番勝てるのは稀勢の里じゃないか」と、手のひらをぐるぐるとひっくり返して横綱にしてしまった。日本人横綱が誕生すれば相撲人気が高まると踏んだ、協会とその周辺の打算の産物以外の何ものでもない。

稀勢の里自身も最初は驚いた筈だ。けれど、彼の口から「まだ早い」など言える立場でもないし、相撲の世界に入ったときからの、憧れの地位が転がりこんできたことに喜ぶのは当然のことだ。このことでの稀勢の里自身に罪はない。

かつて一度も幕内優勝のない力士を横綱にした悪例がある。第60代横綱双羽黒だ。結局彼はその後も一度も優勝出来ず、早々に相撲を引退した。協会の都合で内規を無視した悪例の最たるものだ。内規である以上、必ずしもそれに縛られることはないとはいえ、それを犯してでも強行する以上、結果責任を負うのは当たり前のこと。

先日の暴行事件問題をみても、協会には反省する能力も、先を読む想像力もないと考えてよい。逆に稀勢の里がその内規を胸に、何とか世間が納得する形にしたいと無理した結果の、横綱になってすぐの負傷・初優勝ではなかったか。相撲協会はスポーツ団体のふりをした、ただの興業団体だ。それを国技呼ばわりして、別格扱いする文科省にも、毎場所完全生中継するNHKにも責任がある。横綱の責任云々のまえに、自分たちの都合で横綱にした責任を取るべきときではないか。

人の夢を盗み見る /

のんきな日々もいつまで

ART(国際電気通信基礎技術研究所)と京都大学の研究者が、人が見ている脳内の画像を視覚化することにほぼ成功したと、ツイッター上で見た(論文の一部も)。

少し詳しい説明をすると、画像を見る人の脳をfMRIで測定したデータだけから、画像の視覚特徴パターンを予測するよう機械学習したデコーダーを通して画像化することができた、ということらしい。

ついに他人に夢を覗かれる時代が来た。逆にいえば、人に特定の夢を見させることも可能な技術の幕開きであり、怖い技術だと直感した。

こういう技術は、身体的なハンディのある人が、イメージするだけでアームを動かせるとか、自動車の自動運転などにいずれ使える有意義なものだ。けれど一方で、独裁者やその類の思想下にある人々とっても、最も欲しい技術に違いない。クーデターの夢を見ている人は、翌日の朝を迎えることができなくなり、そうでない人も一定の夢を強制され得る。抹殺と洗脳という、マイナス方向への計り知れない影響を考えずにはいられない。

葉牡丹 / Flowering cabbage

葉牡丹

今朝も快晴だ。気分だけは(いろいろ思い出さないかぎり)よい。こんな時は、気持ちのよい音楽を聴き、嫌なニュースには耳を塞ぎ、静かに詩でも読むのがいい。のだが、現実はなかなかそうならない。

葉牡丹。昨年まで、全く興味がなかった。今もまあそうなのだが、園芸店を覗いているうちに何故か、これを描いてみようと、小さな鉢をひとつ暮れに買った。

大小20枚くらい描いた。そのうちにだんだん葉牡丹を描いている気がしなくなって、自分がそこに投影されてくる。これはひょっとして俺なのかも…。ところどころ引っかかるようにギザギザで、点々で、非常識な色が前後の脈絡もなく在る。このいい加減な有りようはまさに俺だが、それはもう葉牡丹を描いているとは言えないのかも知れない。