そろそろ帰ります

川はひんやりして気持いい。次回は一人で釣りを楽しもうと思う。
雨水ではない。湧き水が轍に入り込んでいる。飲もうと思えば飲める。

昨日アトリエを片付け、ガスを止め、冷蔵庫のコンセントを抜き、全体に掃除機をかけて今年の下北での制作は終わった。今日は完全休養で3〜4時間ほど山と川を眺めに行ってきた。

山がまた活用されてきているのか、子どもが小さい頃連れて行った際は、このまま道が途絶えてしまうのかと心配するほど草がかぶさり、木が道にまで枝を出していたのが、以前のように大きな車まで通れるようになっていた。舗装ではないがそれなりに整備され(小さな崖崩れが2ヶ所、落石1ヶ所)、安心して走行することができた。

下北半島は一体に湿地が多い。そのため湿地の植物、例えば水芭蕉などは海抜0mからいくらでも見ることができ、しかも巨大。山道を走れば水たまりがいたるところにあり、しかもよく見ると「たまり」ではなく、結構な速さで流れている。いたるところから湧き水が溢れ、道を流れ、たまりを作っているのである。

霧が多く(日照時間が少ない)、冷涼(ではあるが、極寒ではない)、花崗岩と砂の大地、原生林がある。などを考えると、動植物、特に植物には独特の進化、固有種などが見られ(そうである)。「そうである」というのは、まとまった調査がほとんどなされないから。そもそも平地で、両サイドを国道が通り、それなりに人の生活に利用もされている。となれば、日本中の金太郎飴的な里山の自然と同じに見え、学者の興味を引かないのも当然とも言える。実際に調査をしてみると結構特異な相があるらしいが、研究費もまた「湿地状態」らしいのである。

何だか骸骨を見ているような

旧老部(おいっぺ)小学校 2019/8/26

廃校になってから十数年経つが、いまだに取り壊さないのはここが避難場所になっているからだという。何から避難するのかといえばほぼ「津波」以外にはないが、ここは海抜7〜8mしかない(それでも集落の中では確かに「高台」ではある)から、東日本大震災を映像で見た記憶もまだ生々しい私たちにとっては、果たして避難場所として適当なのか少し心配ではある。

教室は一直線に並んでいて、一学年1クラス。向かって一番右に児童用の玄関があり(画面外)、そこから1年生(右の白いカーテンのある)、2年生、3年生の教室が並んでいる。4つ目が職員室で、中央が先生たち用の玄関。玄関から左へ音楽室、4年生、5年生、6年生、だったはず。体育館や給食の調理室などは先生方の玄関からまっすぐ奥へ進む。体育館も大きくて広く感じていたが、今見るといかにも子供サイズだ。

妹が通った頃はもう過疎化してきて児童数が激減。全校児童二十数名で、私たちの頃の1クラスにも満たなかった、小・中学校の統廃合を繰り返し、村内で25以上もあった小学校が現在は1校のみ。それでも当時の老部(おいっぺ)小学校1校より少ないという。

一周200mのグランドは自慢の広さだったが、今はただ雑草が茂っている(地元の老人たちが草取りしたりするおかげで、大きな木が生えたりしないで済んでいるらしい)。何かに利用できないかなあと思うが、歩くのがやっとの老人ばかりの集落では、利用どころか維持するのさえ負担なのだと感じられる。

自然貧乏

「Appleのある静物・習作」(部分) 2019/8/25

今年の下北滞在はつい「頑張ってしまった」。28日に帰ると仮定して、たったの20日間、例年のごとく、頑張って仕事してしまった。作品の写真締め切りが近いせいもあるが、つくづく貧乏人根性が染み付いているんだなあと思う。

実はテントを持ってきていた(なのに、テントを張るようなところに1日も出かけなかった)。山にでも海辺にでもテントを張って終日ゴロゴロ寝転んでいればいいし、晴れたら海でも川でも釣りにでも行けば良かったじゃないか、と今頃になって釣り道具を用意する「気持ちもなかった」ことを残念に思う。

川は水が流れているだけではない(それは川ではなく、単なる水路のことだ)。昨日、黄貂の話をしたが、自然の川とはそれらの動物やその餌となる植物やら何やらと一体になっている、「環境」そのもののことだ。自然のそばにいて「環境」に関わらない時間というものを持っていいものだろうか。それが「雪の中であの美しい黄色をもう一度見たい」などと口走る自分の在りようなのだろうか。

「あ〜あ」。幾つになっても幼い我が精神よ(幼稚だと言っているだけですよ。「若い」という意味はありません)。「豊かさとはなにか」。考えるヒントはゴロゴロしているのに、ゴロゴロしない人には見えないんだなあ。がっくり。