いよいよ絵を描かなくっちゃ

「デンドロビウム」 水彩

いよいよ絵を描かなくっちゃならない。義務ではない。仕事でもない。自分の人生としての、まとめとして絵を描かなくっちゃならないんです。

今までもたくさん絵を描いてきたし、今も描いてはいるのですが、どうも「自分の絵を描いた」って感じがしないんです。このままじゃ、自分の絵を描かないまま、あの世行きだなー、なんて考えるトシになってきたんです。自分をフジミ(富士見×、不死身〇)だと信じていたこのワタシが、ですよ。

じゃあ、これまでの絵は何だったの?ってことになりますよね。“かなり手前味噌” になりますが、これまでだって、「他人の絵」を描いてきたわけじゃあないはずだし、いま自作を見ても、自分の世界観がそれなりに絵の中に込められているとは思います(これを「独りよがり」というのでしょうが)。でも、何か足りないんです。
 良い絵を描きたい、というのとは違います。「良い絵」が描けたと自分が思っている時が、一番ダメな絵を描いている時だ、ってのは、これまでの人生で深~く味わってきたから、そんな次元はもう卒業しました。願うのは、「自分にもこんな世界があったんだ」or 「もうこれ以上は無理だぜ」ってヤツかな。

それを描いた直後に死ぬってのはまるで時代劇ですが、アイツは昔の人だからと、そこは大目に見てもらって、「この人があと数年生きていたら、もっと面白い絵を描いただろうなー」と、想像したくなるような絵を描いて死にたいんです。べつに、そういう評価が欲しいわけではありません。そう思えるような絵を描きたいという気持、あの世へ持っていきたい一枚ですね。

ウクライナ戦争

「芍薬」 水彩

YouTubeなどを見ると、ウクライナ戦争に関するチャンネルがたくさんあって、どれもそれなりに視聴されているようです。発展途上国内の部族紛争絡みの内戦と違って、れっきとした先進国同士の、しかもどこかの小さな島を巡る争いのようなものではなく、一国の存亡をかけた総力戦ですから関心が高いのは当然ですが、こと日本に関する限り、誤解を恐れずに言えば、多くの人にとって、本物のエンターテイメントでもあるからでしょう。

死に物狂いの争いでも、無関係の第三者が安全な場所から見る限り、それは一種の娯楽になり得ます。古代ローマのコロッセオで、囚人とライオンとの一騎打ちを見物する観衆のように、あるいはハイエナに襲われる瀕死のシマウマを、サファリカーからスマートフォンで写真を撮る観光客の例を出すまでもなく。

けれど、すでに多くの人が指摘しているように、ウクライナ戦争は決して高みの見物ができるようなものではなく、日本とも無関係ではないと、わたしも思います。もし、ウクライナが負けたなら、それはほぼロシア一国を相手に、アメリカ、Nato、日本などの連合軍が負けるに等しいことになるでしょう。国連でも、もうアメリカの云うことをまともに聞く国は無くなるでしょうし、ロシア寄りのドイツ、フランスとその他にNatoは分裂ですし、台湾に中国が侵攻しても、もう誰にも止めることはできなくなります。いずれはロシアと中国も争うでしょうが、当面は世界の二大リーダーということになるでしょう。

悲観論とは思いません。ごく論理的な帰結です。東京から南は中国領、北はロシア領となる可能性だってゼロではない。それがウクライナ戦争の、日本における意味だと思います。日本を含め、欧米は確かにウクライナに大きな援助をしています。けれど、対岸の火事感、一種の観衆感を拭い去ることができません。ウクライナは負けそうです。援助も遅すぎ、少な過ぎ、制約あり過ぎで非効率、と言われています。このツケは、そう遠くないうちに自分たちで支払うことになるでしょう。今は、そうならないことを祈るしかできませんが。この記事は、ウクライナ戦争に対する、現時点での自分自身の記録として書きました。

「絵」と「絵に似たもの」

「つぼみ-ジャーマンアイリス」 水彩、ペンなど

これは結局「絵画とは何か」という問題に帰着します。「絵に似たもの」=「絵ではない」ということは、絵とは何かという問いの裏返しだからです。

本題は絵のことですが、例を挙げるには彫刻の方がし易いので、そうさせていただきます。彫刻=立体=彫刻、ではありませんよね?自動車は立体ですが、誰も彫刻とは呼びません。ショーウインドーのハンドバッグも精巧で美しいものですが、やはり彫刻とは呼びません。けれど、この形を彫刻家がブロンズで作れば彫刻と呼ぶでしょう。同じように、ハンドバッグも彫刻家が作れば彫刻です。メタルとか革とかの素材の問題ではないんです。では、彫刻家が作ればなんでも彫刻なんですか?答えはイエス、です。

現代絵画のトップの一人、ゲルハルト・リヒター(独)は「(わたしにとって)眼に見えるものはすべて絵画だ」と言っています。ならば「絵に似たもの」などと云わずに、すべて絵だと言えばいいじゃないか、と思いますよね。要は、絵だとか絵に似たものとかの区別に意味はない、と言っているわけですが、それはリヒターだから。彼ほど、絵(画)とそうでないものの違いを追及している人は少ないのです。わたしのような一般、凡人にはもっと考えることが必要です。

砂に描いた絵もわたしは絵画と認めます。ペンライトで空中に描いた絵も認めます。彫刻家が作れば、アンパンも彫刻であるように、画家が描くから絵画なんです。学校の先生が描いても絵画にはなりません。その先生が「画家」になって、初めて「絵画」になるんです。この場合の「画家」は職業欄のことではなく、その人個人の、マインドとしての「画家」です。芸術家にならなければ、芸術作品を創ることはできない、とわたしはそう感じています。