身体というフィルター

思わず、ポカンと口を開けてしまった。そこにわたしのやったことが書いてあったから。ちょっと長いが引用する。―「たとえば、リンゴと言えば赤くて丸い果実のことですよね。もうガチガチに辞書的な意味が固まっていて、亀裂などない。だけど詩人は、言葉と意味の束縛を解いて、まったく違う意味を見つけます。リンゴを割った断面を崖の斜面に見立てたり・・・」―。まるでわたしが崖とリンゴ(今のAppleシリーズにつながる)を結び付けた瞬間を見ていたかのようだ。

今朝読んだ、朝日新聞デジタルでの連載「AIと私たち」の中で、郡司ペギオ幸夫氏が述べたこと(ちなみに、ペギオはペンギンが好きだからなんだと)。でも、次の瞬間、別のことも考えた。「例に出すってことは、誰にも分かりやすいってことなんだな」。飛んでる発想ではなくて、ちょっと横に一歩足を出してみただけ、ってことかと。もちろん、わたし自身もその程度だなとは、当時も今も思っているけどね。

こうも言っている。「AIそれ自体より、AIによって世界がすべて理解できると思いこんでしまう人が増えていることが、怖いですね(少し短くしています)」。解剖学者の養老孟子氏が「AIはバカの壁を越えられない。身体を馬鹿にするな、と言いたいね」と述べていることにもつながっている。

「何を描くか」の発想を考えるとき、(今はあまりしないが)まず詩集を手に取って、イメージの湧きそうな言葉を拾い出すことから始めていた。詩の内容はあまり深く理解できなかった気はするが、言葉から発想、空想を広げられるかどうかには、わたし自身の経験が重なることが必要だった。「身体というフィルター」を通して言葉と意味を行き来させるかぎり、そこには鮮やかな(個別の)ディティールが浮かび上がる。小さな突起で腕を擦りむいた―そんな身体性が、作品を支えていたんだなあ。AIが作る画像の空虚さが、まさにそのことを裏返しに示しているのだと思う。

できることから-2

「できること」は人によって違う。そんなことは常識。だけどそれは言葉だけで、わたしなどはつい、「(人と同じ程度のことは)自分にもできそう」な気がしてしまう。「人と同じ程度の」の「人」ってどんな人のことなんだろう。「同じ程度」ってどうやって計るのか、なんて考えずに、漠然とそんな気になっている。

歌を歌う。楽器を演奏する。魚釣りをする。山登りをする。詩を書く。料理をする・・項目を挙げればきりがないが、どれをとってもプロ級に上手な人もいれば、不得意な人もいる。が、「普通」とか「人並み」ってどの程度なのか、誰にも判定できない(のではないか、と思う)。なんとなく、「自分の中の平均値?」に照らしているだけ。経験がなければ、それさえ作れないはずなのに、なぜか(神のように何でも)分かっているような気になっていたりする。どうしてなんだろうか。

一種の「情報・知識」があれば、「知っている」ような気がするんだろうね。知識の中には「他人の失敗」というのもある。自分はそれよりはちょっとマシかな、というヤツ。そうすると、「できること」というのは、一定の知識があり、しかもそこそこ「自分はもう少し上手くできる」くらいの自信があるもの、ということになるのだろうか。

未経験のことなら、できるかどうかなんて、やってみなくては本当は分からない。できても出来なくても、やってみれば何がしかの手応えがある。それを基に、できそうだと感じたら、もう少し深くやってみる。そういう意味なら「できることから」ではなく、「出来そうなことから」にタイトル変更だ。一方、いろいろやってみて、どれも薄い手応えしか得られなかった経験者からすると、その(薄さの)濃淡から、「とりあえず、これなら」という感じで、「できたことから」になるのだろうか。
 最近、「なんでこんなことができないんだろう」と頭を搔きむしることが増えた。それが、髪の毛が薄くなったのと関係があるかないかは知らないが、本来やるべきことを忘れて、こんなどうでもいいことを妄想していた。これじゃ、できることもできなくなるワケだよね。

できることから

「できることから」と聞けば、ほぼ自動的に「始めなさい」と心の中で続きの文言が浮かんでしまう。日本の小学校に入学した経験のある人ならば、つまり日本人の「ほぼ」全員が耳タコのアレ。でも、入学以後は、ほぼあらゆることについて、「どこまで行くのか」のゴールは自分で決めなくてはならない。それが、どれも意外と重いのである。

“推奨される” 多くの考え方では、最初にゴールを設定するらしい。例えば「パソコンを使いこなせるようになりたい」。できること(スタート)は「まず、パソコンを買う」。一見普通に見えますが、これって、「ゴール」も「スタート」も、とんでもなくハードルが高くないですか?「設定」すること自体、ハードルが高いんです。

パソコンを買う前だから、使いこなせるかどうか解らないのが前提だけれど、「使いこなす」なんて到底無理だし、どんなパソコンをどこで買ったらいいか、見当もつかないのが普通じゃないですか?「パソコンを買う」もいきなりじゃ、ハードルが高過ぎるでしょ。どんなに安くたって、数万~数十万円はする買い物なんだよ。
 せいぜい、ゴールを「パソコンについて、いろいろ知る」程度まで下げる。スタートは「どこから知識を仕入れるか、を知る」。パソコンになじみのない人にとっては、これだって、十分ゴールになり得るほどなんですよね。

とりあえず、子どもや孫に聞くとか、使っている知人に聞くかする。自分で調べられる人は、すでにかなりパソコンの知識がある人だ。絵も同じだし、たぶん、他の多くでも似たようなものでしょう。
 で、絵のゴールは?「(自由自在に)自分を表現できるようになりたい」。これって、ハードルがとんでもなく高くないですか?それでも「パソコンを使いこなす」よりはまだハードルが低くなった気がするけど。だから、相対的に「絵についていろいろ知る」程度まで「下げ」てもいいんじゃないか。現実には、「下げる」と言っていいのかどうかさえ「微妙」。「いろいろ知る」の「いろいろ」だって、案外深いよ、きっと。