“失敗”はどこ?

こりゃあ失敗作だ。でも、どこが悪いかチェックしなくては
とりあえずCGで修整してみた。「間違い探し」感覚で見てください。。

「桜を描く」と宣言したからには、と勢い込んで描いてみた。が、描いてみると「こりゃあ失敗作だわ」。そもそもスタート時点から、もっとずっと横長に描くつもりでいたのに、「スケッチブックに合わせて」集中構図にしてしまった時点で“失敗”だった。

失敗を公開するのは嫌なものだが、なぜ失敗したのか、どこが失敗で、それをどう直せば次につながるのかは、描く人にとっては“上手くいった”絵より、時には大事なことがある。

まず客観的にこの絵を見る。すると ①重要なモチーフが集中しすぎ、と最初に感じるでしょう。狭い画面に要素を盛り込み過ぎているんだよね。初心者に最もよくある失敗を、数十年の経験者(わたしのことだ!)がやっちゃってます。恥ずかし~! ②どこが悪いのかと言えば「右側の逆光の桜の枝」。全部必要ないですね。逆光の枝は左側から少し出ている。それで十分。右側はすべて「蛇足」。右側の枝を描こうとする前に、それは頭をよぎったけれど「えいやっ」とやってしまった。「なぜ、『えいやっ』だったのか」まではここでは公開しませんが。

他にも細かいところはいろいろ失敗あるけれど、ゆったりした横長にしなかったのがダメの出発点かな。横長にしていたら、②はむしろ効果的だったかもしれません。結論:スケッチブックの紙面を全部塗らないともったいないような気がしたことが、すべての失敗の遠因かも。“ケチ根性”が身の破滅、ってことかな。あ~あ。
※水彩スケッチの現物修正は3月13日(月)夜に実施し、その内容は録画しました。1週間以内に修正部分も含め、このスケッチを3月17日(金)夜にYouTubeにアップする予定です。

枝垂桜。コロナで数年見られなかったが、ことしは見れるかな

桜の話題が広がり始めた。それにしても本当にこんなに日本人は桜と紅葉が好きなのだろうか。ウクライナ戦争があろうと、トルコ・シリアで大地震があろうと、コロナがあろうと、マイナンバーですったもんだしようと、結局桜の話題に流されてしまう。おそらくこの国の将来がどうなるかより、いつ、誰と、どこの桜を見に出かけるかの方が重大事なのに違いない。

桜さえ咲いていればこの世は天国。12年前の東日本大震災の直後はちょうど桜の時期に重なった。それでずいぶん癒されたという人もいるだろうけれど、それで災害の悲惨さがずっと軽くなってしまったという面もありそうだ。桜は日本人にとって、苦しいこと、嫌なことを忘れさせてくれる、巨大な“免罪符”のように働く力を持っているらしい。

桜を少し皮肉っぽく言ってしまったが、桜を見るとわたしもやはり気持ちが浮き浮きする。桜の絵を子どもの頃は何度も描いた気はするが、本格的に絵を描くようになってからはほとんどまともに描いた記憶がない。せいぜいスケッチまで。あからさまな「天下泰平」賛歌か、皮肉屋と見られるかのどちらかにまとめられそうなのが嫌だというのもあるが、造形的要素としても何となく物足りない感じがするからでもあった。その点、日本画家は皆せっせと桜を描く。桜は日本人にとってすでに象徴でもあるから、写実性よりも象徴性に重きのある日本画にはぴったりの画題だということは頷ける。

桜をことしは描いてみよう、と思い立った。造形的に弱い感じというのは、わたしが造形化できないということであり、別に桜の方に罪があるわけではない。いつもどんなものでも絵になるはずだと考え、主張してているのだから、桜を避けていたのがむしろ不思議な気さえしてきた。

日なたの方を見る

以前にも全く同じタイトルの記事を書いた記憶があるが、あえてチェックしない。仮に内容も似たり寄ったりだとしても、それを再び書く意味があると感じたから書くのだろうから。―Look sunny side (ルック・サニーサイド)って、いい言葉だなと思う。

「物事には表と裏がある」というと「真実っぽい」が、真実かどうかなど広く、細かく、深く、ゆっくり見ないと本当はわからない。そのうえ「真実」という定義そのものもおそらくはなく、一筋縄ではくくれない不分明な広がりを持っている。―「表と裏はくっついている」という慎重なものの見方はたぶん、人間がこの複雑な社会生活を営む上でのひとつのテクニックとしても、欠かせないものなのだろう。

「日なたの方を見る」。人を見るならその人の長所を。自分を見るなら得意なところを。制度や仕組みを見るなら、まだ足りないところだけを見るより、達成された部分を(ちょっと大きめに?)見る。―一見すると体制側、行政側の好むように見るという、迎合的姿勢ともとられかねないが、必ずしもそういう政治的視点に留まらない、人間(心理)的な視線という温度感がそこにはあるような気がする。「絵」でいうならば、欠点をあげつらい、仮に欠点をゼロにできたとしても、その絵の魅力が倍増するわけではない。そんな小さな欠点には目をつぶってでも、その人固有の「良いもの」を伸ばすことが、本人だけでなくもっと広がりのある大きな価値を生み出せると、日々感じているという意味だ。

「日なたの方を見る」は、伝統的・保守的な見方かもしれない。「物事を(自分に)都合よく解釈する」、という批判も免れ得ない。それでも、「あなたのやっていることには意味があります」というメッセージは明るく、前向きで、何より「生き物はそう(希望的に?)生きてきた」に違いないと思っているんです。わたしは生命科学者ではありませんが。