チャットGPT やってみた

編集中のビデオから

チャットGPTやってみた。無料の体験版で、ちょっと古いバージョンらしいが、とりあえず“触り”を体験してみた。今回は話題の音声入力ではなく、キーボードでの入力。

実際にどんな風に試したらいいか、初対面の人に何から話し始めたらいいか戸惑うのと、そっくり同じ気持ちになった。まずは、小学生が調べる宿題を出されたと仮定して「りんごの栄養素について、200字以内で書いてみて」とリクエストしたところ、数秒!で100点満点以上の模範解答。字句や文章にも不自然さはまったくない。なるほど小論文程度の課題なら一発で満点ゲットだ。

俳句などは得意だと聞いていたので、春の季語で10句作ってもらった。これも数秒!だったが、結果は散々。俳句になっていない。で、五七五の音節に合わせるよう指示して、再挑戦させた。リズムは良くなったが、俳句の概念がまだよく学習されていないことは判った(最近のバージョンで試しても似たり寄ったりの結果)。
 「I can’t watch TV in my bathroom. この英語は変ですか?」と聞いてみたら、『文法的には間違いではないが、文脈としては不自然だ』という回答。その理由として、『普通はバスルームでテレビを見ることはほぼないから、見ることができない、という言い方の方がむしろ不自然。ただし、特別にそれが許されるような状況があり、そのことが理解される文脈の中でなら、このような言い方も受け入れられることはあり得る』となぜか英語で回答してきた。内容は納得できる。
 ついでに、別の「言語→画像4枚」ソフトで、言語を画像化するソフトも試してみた(これも無料の視聴版)。「赤毛の少女が、ニューヨークの混み合った道の真ん中に立っている」と入力したら、これも数秒で4枚のそれぞれ異なる絵を表示してきた。チャットだから、「ここをもっと○○に」などとやり取りを繰り返せば、どんどん自分の望む画像に近づけるだろう。ちなみに、わたしがこれから描こうとしている、あまり具象的でない絵を言葉で入力してみたら、どうしようもない絵ばかり提示してきた。

以上が初体験の記。特に画像ソフトに関しては、画家としていい印象を持っていなかったが、試してみるとこれは画家(特に具象画の)も利用するだろうと感じた。絵の好きな人がAIに“オリジナル”を描いてもらえるだけでなく、筆を持つ経験などなくても「画家になれる可能性がある」ことも分かった。あらゆる意味で、(人間には)もはや特殊な能力や才能は必要なくなる。そういう世界が目前に現れてきた、ということだ。いいのか悪いのかはわからない。ただ、いいことだらけではなさそうだ、という不気味さを直感したのも確かだ。

制作開始

Apple-海を渡る(制作開始)

6月のグループ展へ出品予定の作品(100号)。本来ならとっくに仕上がっていなくてはならないはずなのだが、尻に火が点き、燃え始め、おなかの方まで燻ってきて、やっと腰を上げた。もう尻は真っ黒こげになっているかもしれない。今月末がデッドライン。

テンペラで描き始めた。エッグ・テンペラは鶏卵を糊(接着剤)にして色の粉を中に練り込み、それを画面に定着させる古典的な技法。糊を玉子ではなく膠に置きかえれば日本画になる。つまり日本画と材料的には親戚である。とりあえず、モノトーンでイメージを描きだしてみた。

描き始めてみると100号はいかにも小さい。個々のモチーフを画面に配置すると、本当にちっぽけなものになる。少し離れたら見えなくなるのではないかと思うほど。そのうち、細部を描く段階まで進めば画面を広く感じてくるようになるが、今のところはのびのび自由なフィールドだ。もう少しイメージの変化があるかも知れないが、いろいろ検討する時間がない。勢いのままに一気に描いてしまえればいい。

初めは「Apple-ヴィーナス誕生」と仮題をつけてみた。ボッティチェリの同名の有名な作品のパロディをちょっと意識した。波はやや北斎「神奈川沖浪裏」にも似た形象。でも、そこまで。それ以降は画面からの要求と作者の主張との綱引きになっていく。それが絵を描くことの楽しみだが、急がなければならないのが残念。
 ※ビデオ「桜を描く(仮題)」を今日3/17アップロードする予定でしたが、できない見通しです。すみません。“できるだけ早く”ということに訂正させていただきます。

青いカモメの会絵画展、22日から

青いカモメの会絵画展案内状

青いカモメの会絵画展が22日(水)から始まる。そのための準備が進行中だが、個人個人の作品準備はどうやら一段落ついた感じがする。まだ、準備が全然出来ていないのはわたしだけだ、きっと。

出品作品を事前に見せてもらっているが、けっこう面白い作品がある。手前みそだが“老齢スクール”(失礼承知ですが、ごめんなさい)としては意欲的で、若々しい作品が多いと思う。ぜひ、多くの人に観てもらいたい。

一方で、本人または家族に、あちこち不調ができることも年々多くなってくる。年相応、どうしても避けられないことではあるけれど、無理しないでと思うようなときもある。そんななかでも、みんなが絵を描く気力を保っていることは誇らしい。彼、彼女らの絵には日常と非日常が、渾然一体となってきているのを感じる。描くことが特別なことではなく(それなりのプレッシャーはあるにせよ)、日常の一部になりつつあるのを感じる。
 「芸術」がなんだか特別な人々だけの、手の届かぬ世界のことのように思っている人がいまだ大多数に違いないが、そのような行き方では芸術は死んでしまう。絵画に限らず、芸術家は常に人々が芸術を「日常化してくれること」を切望してきた。表現としては同時代の人々の理解をこえるものであっても、“それでも理解して欲しい”と訴え続けてきたのが、美術史のもう一つの見方だと考えている。芸術はモノにではなく、人間の中に在る。確かに作品は物理的なモノだけれど、それを作る人の、時代と環境を抜きにしては語れない。環境とはそれを支える人のこと。

青いカモメの会絵画展では、いわゆる“正真正銘の芸術作品”はたぶん期待できないかも知れない。けれど、「青いカモメの絵画教室」ではあえてそれを目標にしてこなかった(チャレンジはおおいに結構)し、青いカモメの会絵画展は「芸術を支える人の芸術展」であることが大事だとも考えている。これまでのツライ「絵画修行」で、絵を描くことの内側を体験、理解してきた。そういう視点を持つこと。それぞれの表現やレベルにもゆっくり造詣を深めてきた。そしてそれがどんなかたちであれ社会に染み出していく。そういう存在になることが大事だし、そうなってきたなあと嬉しく思っている。