人物画

レーピン「イワン雷帝」(パブリック・ドメインから)

「人物画」と言えば「肖像画」と一瞬思うけれど、風景や室内に複数の人間がいるような絵も「人物画」に入れていいだろう。たとえばピカソの青青の時代の人物画や、バラ色の時代のそれなどは、少なくとも肖像画ではないけれど、主題は同じく「人間」だ。

似せる、似せないも本質的なものではないのかもしれない。これもたとえば藤原隆信筆と伝えられる国宝「伝源頼朝像」など、本人に似ているかどうかの判定など不能だし、「キリストの肖像」なんてのも同様。けれど、逆にそこに想像力を働かして片岡珠子「井原西鶴像」などというのもある。絵だけでなく、彫刻もそうだ。そうではあるけれど、まあ一般的に言えば肖像画は「本人に似ている」、人物画は「画中に人間がいることを主題にしている」ということになるだろうか。

そういえば、(日本ではあまり多くないが西欧ではむしろメインな)「歴史画」というジャンルもある。人間が歴史を作っているのだから、歴史画と言われるものの多くが「人物画」だ。多くの人が知っている、ナポレオンが馬にまたがって「アルプスを越えよ」と右手を掲げて指している絵などがそれにあたる。ちなみに、わたしはロシアの画家レーピンの「イワン雷帝」などが歴史画としては好きである(上の写真)。
 うっかりしていたが、「自画像」というカテゴリーもある。こちらではレンブラントの名前くらいは覚えておこうね。たとえ絵は忘れてしまっても。

人物画が好きか嫌いかはべつとして、興味のない人はいないはずである。多くの学者の研究によると、人間は人の顔を詳しく見るように脳を進化させてきたのだそうだ。微妙な表情一つで感情やさまざまな考えさえ伝える“人間の顔”。教室でも制作に全員苦労しているが、それだけごまかしが利かず(作者自身にとっても)、高い表現技術が求められるということなのだろう。「風景」と「人間」は芸術の2大テーマである。どこをどう考えても結局この二つに関わらざるを得ない。いまさらだが、もう少し素直にこのテーマに向き合ってみようと思う。

コスパ(コストパフォーマンス)

YouTube「青いカモメの絵画教室」ビデオ‐「フェルトペンの使い方」から

「コスパ」はもうすっかり「日本語」だ。日本以外ではどこにも通用せず、かつマスコミでもごく普通に使われているのだから、すでに「純粋な」日本語というしかないだろう。まあ、そんなことはどうでもいいが、要するに「効率重視」のこと。

最近YouTubeも“倍速”で見る人が急速に増えているのだそうだ。ユーチューブだけでなく、ニュースも、なんと勉強、教養まで。確かにニュースなどは時間当たりの価値が低く、倍速どころか4倍速でもいいと思うことさえある。勉強も教養も知識を得るという点では、倍速で出来るなら、それに越したことはないのかもしれない。

ただ、知っていることとそれを味わうことができるということとは全然別のことだ。お茶でもお酒でも、銘柄やなにかをやたら詳しく解説したりすることは、時に味わいの妨げになることもある。一つの銘柄のコーヒーだけを愛し、その時間をじっくり楽しむ人にとって、他の銘柄の産地だの、トレンドだのはどうでもいいことだし、コーヒーに関する知識がある方がより深く味わえるのかどうかは分からない。勉強や教養などはもともと自分自身が世界観を広げ、深めるためのもので、それで賞賛を得たりするのはまた別のことのはず(だった)。しかし、味わいが解るようになるまでには、なんと言っても時間と(たとえ大金でなくても)お金がかかる。
 でも、どうやら教養と知識が混同され、教養ある人=博識=知識人=いいね!の数(!)になりつつあるらしい。そういう意味なら、教養を「倍速で身につける」ことの大事さも理解できそうだ。もっとも、教養ある人は多くの場合博識でもあるから、一概に「混同」とも言い切れないが。

「15分で芸術のすべてが解る」といっても誰も信じまいが、もう少しすぼめて「15分でジャズのすべてが解る」と言えば、(ジャズの教養ある人にとっては“フン”と鼻もひっかけないだろうが)わたしのような音楽の素養のない人にとっては「見てみようか」という気にならないとも限らない。時間とお金の“コスパ”が、場合によっては数百、数千分の一で済みそうな気がするからである。
 YouTubeでのわたしのビデオ「フェルトペンの使い方」。「8分17秒」で、「フェルトペンで何でも描ける」ならコスパ最高!だが、それで描けるようならすべての画家はとっくに廃業しているはずなんだ。ちなみに、ビデオでは「(わたしの)使い方」については解説していますが、それを見ただけで誰でも同じように描けるとは言っておりません。

大学入試

「房総の漁港にて 」 フェルトペン+透明水彩

今日は全国で多くの国公立大学の入学試験、第1日目が行われる。受験生にはぜひ、日ごろの勉強の成果を存分に発揮してほしいと心から思う。もうだいぶ前になるが、我が家でもこの時期、皆があえて“リラックス”を意識するほど緊張していたのを思い出す。

「手が震えてうまく字が書けない」と子どもが言っていたのを忘れることができない。それだけ受験生は緊張している。彼(女)らの人生で、たぶん最大のハードルと感じられているからだと思う。

「どこの大学を出ても、卒業してしまえばあとは本人次第」という人がいる。けれど、少なくとも日本の現実では、どの分野でも最終学歴(出身校)は一生つきまとう(子ども本人だけでなく親のそれも)。ごく最近では履歴書に年齢欄、最終学歴欄がない仕様で募集する会社がポツポツ出てきたようだが、まだほんの一部。子どもたちは敏感だから、マスコミや文科省の云う大学選びとその後の社会との関係の“理想像”など殆ど信用していない。信じるのは彼らの身近な先輩の、ナマの体験談。

これもだいぶ前のことで恐縮だが、「実力で人生を切り開く」を(逆?)テーマにした、アメリカのショートアニメを思い出した。~二人の小学校の同級生。女の子は移民の子で母子家庭。男の子は富豪の〇番目の子。父親は大きな会社の高い地位にある人だ。~~男の子は専門の家庭教師を何人もつけてもらい、有名大学へ無事合格。女の子は母親の体調が思わしくないので、高校を中退して働き出す。~~次に二人が出会うのは(男の子の)結婚式のシーン。そこで新郎(男の子)は宣言する。「僕はずっと自分一人で努力し続けてきた。頑張って不可能なことなんて、ないんです。」来賓も言う、「富豪の息子だからというだけでは、現代では通用しません。ここまでの成果は彼個人の努力以外に何もありません」~~式場からカップルへの、プレゼント用の結婚式ビデオをずっと撮り続けているスタッフが「女の子」です。―直接、大学入試に関係ありませんが、入試を報道する各社のスタッフの多くは“いわゆる”一流大学出身の人ばかりなんだよなーと思いながらニュースを見ていました。――受験生、みんな頑張れ。