カラカラだった東京、関東に久しぶりの「雪」。ちょっと風邪気味のうえ、昨夜はちょっと胸苦しくなって夜間診療を受けたので、今日はウオーキングも控えようと思っていたのに、雪の風景が見たくなってつい出かけてしまった。ただし、自転車で。

雪の風景は大好きだ。なぜか心が躍る。気温がもっと下がって、雪質がサラサラしてくるともっと嬉しくなる。やっぱり北国育ち、だからかな?

わたしは色が大好きだが、正直言ってカラーセンスにはあまり自信がない。たぶん色に溺れてしまうのだろう。色数が少なくなると反比例的に自信が湧いてくる。そういうわたしには、雪の風景はぴったり、しっくりくる。本当に美しいと思う。けれどそれを絵に描くことは滅多にない。自分でも不思議。雪の中にいることだけで満足してしまうからだろうか。

父の葬儀の日は大雪だった。たくさんの人が頭にも肩にも雪を載せて父を見送ってくれた。火葬場への往復も林の中を通る絵のような道だったが、描こうという気にさえならなかった。なぜなんだろうか。

ブラックペパー江戸弁―大脱線

ブラックペパー(油彩)

「2022の新しい旅」といいつつ、やっていることはとりあえず 2021年の後始末。こんなものを仕上げたからってどうということはないのに、片づけないと昨日の靴下を今日も穿く感じでなんとなく気持ち悪いのだ。そのうえそれを見せるなんて、靴下どころか洗濯前のパンツを見せるようでもっとおぞましいのだが、今日の制作はそれしかなかったという自分への「戒め」だったりする(オレはもしかするとマゾヒストだったのか?)。

“マゾヒスト”ついでに言うと、それに近い感覚はすでにほとんどの日本人に体質化しているのではないか?と常々思っている。考えてごらんよ、たとえば「忖度(そんたく)」。だいぶ前に話題になったルース・ベネディクトの「菊と刀」、数年前に流行語になった「空気を読む」なんて考えてみると、江戸時代どころか飛鳥時代頃まで遡れる、同じ精神構造なんじゃない?いわば日本人のDNA。これは簡単には変わらないぜ。

脱線し過ぎだ。  ―要するにCGでやったことを油彩でもやってみたってえだけのことじゃねえか。でもよう、油絵具という「実材」を使うと、たとえば関節の病気があればそれがはっきりと絵に現れっちまう。CGにだってそれはあるはずだが、それを見抜くようなCG眼を望むってのはけっこう難しいんじゃねえかな。―要するに、コンピューターで描くのと、油絵具で描くのは同じじゃねえかもって言いてえだけなんだが。

「そんなこと当然だろ?」―ほんとに「当然」って解る?今のコンピューターを馬鹿にしてはいけないよ―また、脱線だ。えーーっと、「本線」ってどこだっけ?

明けましておめでとうございます。

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

今年は何から始めましたか?2022年ももう3日目。光陰矢の如し、です。昔の人は偉いですね、時間の速さを矢に喩えるなんてすごい想像力だと今も感動します。わたしはとりあえず元日には恒例の「描き初め」をして、「光陰」に「○○印」の傷をつけておきました。

アインシュタインの相対性理論によれば、時間を遡る、つまり「過去に帰る」ことは理論的には可能ですが、タイムマシンが現実に可能かどうかには彼自身は言及していません。

タイムマシンが製造不能なことは明らかになっていますが、その響きは今も心のどこかを打ちます。過去を振り返りがちな年齢になってしまいましたが、タイムマシンなら未来にも行けるはずです。今年は心の中のタイムマシンに乗って10年後まで行ってみたいと思っています。