猫になりたい

ヌード(部分) 水彩 2011

苦しみながら絵を描く、と言うとなんだか努力家のようだ。が、友人によると最近の脳科学では、それでは良い作品は生み出しにくいと教えているようだ。努力は悪である、とまではいかないが、努力よりも「気持ちいいことをする」方がはるかに本質的であるらしい。

実感である。私は相当の長期に亘って作品制作に苦しみ続けてきた。それが悪循環になることも経験し続けている。気楽に描けばいいことは本能的に感じるが、何かがそれを止めている。何か、とは「意識」である。さまざまな、過剰な意識が、気楽に、気持よく描くことを妨げている。

気持ちいいこととは、肉体にも感情にも素直になるということ、素直に快感に近づくということだろう。言いかえれば「ちょっと動物になる」ということではないか。

寒いときは温かい日向で、暑いときはひんやりしたコンクリートの上でゴロゴロ寝そべっている猫、要するにあれになればいいのである。体のことや、気候のことなど意識しなくても体自体、相互にバランスを取り合い、敏感に反応して動物(人間も)は生きている。いや、ことさらに意識しないからこそ、感覚が鋭敏に反応できるのだそうだ。

なぜ人間は無駄な「意識」をするのか。それは人間の意識が弁解(言葉が不正確かもしれない)で出来ているからなのだそうだ。行為の後付けの「弁解」が自分と周囲を納得させるように働くからだという。確かに猫は弁解しない(他の動物も)。失敗の言い訳をしている猫を見たことがない。せっかくの節電の夏だ。暑いときは動物になって日陰でゴロゴロしていよう。言い訳などせずに。天才たちの閃きも、夏休みのゴロゴロ期間に多く生まれていると聞けばなおさらだ。彼らはその期間には上手に「猫」になる術を知っていたに違いない。

絵画講座の廃止(2)

アーティチョーク(部分) F6 2011

10年も通ってきている女性がいる。彼女は夫に先立たれ、今は一人で暮らしている。家には誰もいないから、夜は誰とも話さない。もちろん周りに人は住んでいて、日常のあいさつ程度はするだろうが、絵の話などする相手ではない。講座に通って、共通の趣味の人と少し深い話が出来る喜び。それが無くなると寂しい、と彼女は言った。

けれど、個人的にはもう講座は無くなるものと考えている。私自身にとっては経済的なことやスペースの問題などいろいろ悩ましいことがあるけれど、或る意味で清々すると言えないこともない。

絵画講座はプロの養成所とは違う。技術的なアドバイスを通して、一歩深い世界を垣間見、豊かな趣味のすそ野を広げてもらうことが理想だと思う。その際大切なのは、講師の能力よりお互いの信頼関係だとも思ってきた。けれど、これまでいろんなことがあり、そうした信頼関係にも方々でひびが入り始めている。私にとっては講座の廃止より、そちらの方が何倍も気が重い。内容自体は個人教室ででも代替できるが、気持ちの方はそう簡単には割り切れないからだ。

廃止までどうなるか、廃止以後をどうするか。もっとクールで、もっとリアルな頭が必要だが、残念ながらその能力は徹底的に欠けているらしい。

リズムについて

風景 F4 水彩 2011

最近出かけることが少なくなったから、相対的に制作時間が増えてきた。これは歓迎すべきことである。画家には制作のリズムが欠かせない。それを忙しさの中にも維持しなければならないが、いつの間にかみずからそれを壊してしまっていたことが、あらためて見えてきた。制作時間が増えれば自然に自分のリズムを取り戻すことができる。

誰だったか忘れたが、人間とは過去の塊だ、という意味のことを言った人がいる。過去とはあらゆる可能性の廃棄処分場であり、今とは単に偶然とか運命としか呼びようのない「可能性の幻」だ。それでは考えたり、努力することは無駄なのか?― 実はそうなのである。動物は決して努力などしない。努力とは人間を動物から分け、自らが人間を含む他の動物から搾取する存在になるために考え出した政治的な嘘の美名でもある。ところが体のリズムはその嘘を簡単に突き破り、私たちもまた動物そのものである事実を否応なく突きつけてくる。

それは自分に嘘をつかず、過剰な欲望を持たず、真摯なる「無目的(無自覚という意味)」に生きるという、動物のごく普通の姿である。もっとも、これではあまりに素朴な人間・動物観だと言われるかも知れないが、どうも原点はその辺りにあることを忘れ過ぎているような気がしてならない。  2011/7/3