立春

「立春」(CG)

コラージュのような効果ですね。「コラージュ」とは、一見意味の通らないバラバラの写真や新聞記事、布切れなどを画面に貼り付け、貼りつけられたモノとモノ、画面の主題(?)とが心理的、抽象的に結びつく効果を狙った、近代絵画の技法のひとつ。

正直に言うと、この効果は必ずしもはじめから狙ったものではありません、残念ながら。まだ新しいお絵描きソフトに慣れていないので、あれこれやっているうちにヒョイとできちゃったのです。下の骨は数日前の絵を再利用(!)しています。

緊急事態宣言が1ヶ月延長されました。東京で500人以下とか大阪で300人以下とか言っているが、そもそもPCR検査を国民全員にやるのが最善最短の道ではないかな。莫大な費用(すべて税金前借り)を助成金とかにかけているより、国民も納得できるし、そのあとの費用も少なくて済むのではないか。皆検査ができないのではなく、やりたくないのでしょう。国民全員にワクチンを接種できるなら、検査だってできないはずはありません。検査の方が簡単ですし、今からでも遅くはないと思っています。

一安心したらまたGO TOをやる構えでいるのも腑に落ちません。アクセルを踏んだりブレーキを踏んだり、何がしたいのかわかりません。できるだけPCR検査をして、まずは事実を把握する、どの国もそうしているのになぜ日本だけ違うのでしょうか。事実を把握できずに有効な対策ができるとでも考えているのでしょうか。基本的な考え方をせず、ただ右往左往して「国民を困らせる政治」をやっているように見えてしかたありません。今日は129年ぶりの2月3日の立春だそうです。

明日から「春」

春を待つ (CG)

今日は節分。例年なら2月3日なので、うっかりすると春を1日失ってしまう人がいるかもしれない。節分の翌日が「立春」で、暦の上では春になる。「二月」は一番寒い月とも云われるが、俳句の季語ではそういうわけで「春」に入るのだそうだ。

今日もパソコンでCGの練習。昨日覚えたことを、今日は完ぺきに忘れてしまう。自分の頭どうしちゃったんだろうと不安になるほど記憶力がなくなっている。練習で作った画像はパソコン上に残っているからやったことはわかるが、どうやってそれを描いたのか、描いた記憶自体がないこともある。ちょっと怖いです。

上の絵は「レイヤーマスク」という、基本中の基本のツールを使って描いた。10年も前から知っているのに、使えないまま今日まで来てしまった。まだぎこちないが、やっと半分理解できたような気がする。49点?まだまだまだ。

コロナ感染拡大による緊急事態はどうやら延長されそうだ。こちらは一層厳しい「冬」が続く。まったく気が滅入る。絵でも描かずにはいられない。

コロナを通して自分を見る

Non-titled (CG)

先日までと違うソフトで描いてみた。イラスト系のソフトにはたいてい「チュートリアル」という手引きのvideoがついていて、それを見てからやるのだが、手引き通りにスムーズにいったことはただの1回もない。最初の最初からつっかえて、そんなはずは、と何度もビデオを見直して、それでもなぜか手引きのようにはいかないのが「普通」。のたうち回ったあげく、ようやく分かった気になっても、最初の最初にたどり着くまでにそこからさらに数時間もかかったりする。手引きではたったの1秒で通過しているのに。以前のわたしなら怒り狂ってパソコンを破壊しかねなかった。今もかなりイラつきながら、そういうイデオムなのだと思うようになってきた。

ソフト開発者の多くは画家やイラストレーターではない(らしい)。チュートリアルで「やり方を実演する」デザイナーも、(説明時間がかぎられているから)それぞれ自分のレベルで早口で説明するのだから、初心者は戸惑って当然。そのことがが分かっただけで、だいぶパソコンの傷が減り、わたしの血圧も安定してきた。

新しいことを覚えるには膨大な時間と労力が必要だ。パソコンの知識・理解力から考えると、わたしには普通の人の3倍以上の根気が要るようだ。コロナ禍の今、たまたまその時間が与えられたのだと思っている。

多くの人がそうであるように、コロナによって私の生活も大きな影響を受けている。つらい影響の一方で、わたしは数年前と人が変わったように歩くようになり、歩きながらラジオでいろんな知識を得るようにもなった。偶然にパソコンも入れ替え、様々なソフトも導入した。

考えてみれば、コロナ禍があろうとなかろうと、わたしはもっと早くに自分を変える必要があった、と思う。もしコロナが無かったら、わたしは自分を変える最後のチャンスを失っていたかもしれない(実際にはもう手遅れだとしても)。人類史的にみれば、ウィルスは多くの生命の進化に寄与しているという面もあるらしい。―かすかにうなづく自分がいる。