素顔のわたし②-少年 T

チューリップ (CG)

少年 T は臆病ではあったが、同時に残酷でもあった。友達と遊ぶときは少し気後れして後ろでもじもじすることもあったが、一人になると大胆になり、生き物を殺すことも案外平気だった。
 彼の獲物の多くは小動物、いちばん多いのはカエルだった。雪が解けると、どこからともなくあちこちにカエルがモソモソとうごめいてくる。それを手製の弓で射るのである。矢はススキの茎で、周りにいくらでもあった。それをナイフで鋭角に切り取り、緩んできた地面に突き刺すと茎のなかの空洞に泥が入り、先端部だけ適当に重くなる。矢は先が重くないとうまく飛ばないのだ。

不思議なことに、カエルを殺しているという意識は、彼の中に全然浮かばなかった。むしろ正確に矢を射ることだけに意識が集中していた。カエルには恐ろしい敵だが、彼にとってはカエルは動きの遅いただの標的に過ぎなかった。しかもそれは彼だけの遊びではなかった。友達もみな自分で作った弓を持っていて、同じようにカエルを練習台に、熱心に弓の腕を競い合っていたのだった。やがて暖かくなり、カエルの声が田んぼから聞こえるころには、弓のことも射られたカエルのこともきれいさっぱり忘れて、小魚を追うのに夢中になった。
 小魚もまた彼の遊び道具の一つに過ぎず、彼にとってそれは「生き物」ではなく「さかな」という「動くモノ」であった。カエルと少し違うのは、時々は家に持ち帰って食べることもあることくらい。たいていはさかなを捕まえるところまでしか、彼の興味はなかった。捕まえたあと、その小魚をどうしたかさえ覚えてはいなかった。ただひたすら捕まえること。よりすばしこく、捕えることが難しければ難しいほど、小さなさかなたちは彼の興味を駆り立てた。捕まえた小魚の、手の中でぴちぴちと激しくくねる、くすぐったい感触は彼を有頂天にさせた。そしてぬめりの中に光る極小の鱗、うっすらと浮かび上がる斑点の美しさを、美しいという言葉さえ思い浮かべずに感じてもいた。

もう少し大きくなってからは、狙う獲物も大きくなった。もうカエルや小魚は卒業していた。素潜りと魚釣りの時期を過ぎ、アケビや山葡萄も終わって冬になると、T たちは野ウサギを狙うようになった。それは肉も毛皮も確かに有用であり、それを目的に彼の友人たちも雪の中を歩きまわっていたが、彼の興味の中心はやはりそれを捕まえるまでであった。獲物の生態を調べ、その能力を上回る方法で捕まえること。それが T の願いであり、理想だった。ほかの少年たちがウサギ狩りにも飽きて山へ行かなくなるころ、とうとう狐が彼の対象になった。

狐は、彼の相手にふさわしい警戒心と周到さ、そして知力とパワーを持っていた。すぐに彼は狐の能力に驚嘆し、一種の憧れにも近い感情を持ちはじめた。この美しくも優れた獲物を自分だけの力で捕らえたい、その一方でどうか自分が仕掛けた罠を凌ぎ、生き延びてほしい。そんな矛盾した感情を狐に対して持つようになっていった。
 「罠にかかったらどうしようか。」今度は彼も、捉えたあとのことを真剣に考えないわけにはいかなかった。いま彼の狙っているのは、足跡の大きさから考えて、ある程度の大物だと予想していた。おそらく中型の犬くらいはあるだろう。祖父の部屋の長押にぶら下がっていた、自分の身長ほどもある大きな狐の襟巻を彼は思い浮かべた。―あれより大きいかも―そいつが罠にかかったときの、死に物狂いの抵抗を T は想像した。「逃がしてやるのが一番危険で難しい。」彼は何度も頭の中で、うまく逃がしてやる方法をシミュレーションしてみたが、うまい方法が思いつかなかった。鋭い牙で噛まれ、自分も大怪我をする可能性の方が大きい。―手早く殺すしかないが、どうやって?
 獲物の逃げ場をせばめ、足場の悪いところに追い込んでいる以上、自分の足場の幅もぎりぎり、斜めでしかも凍っている。足が滑れば足元の深い淵の中へ自分が落ちてしまう。棍棒で殴り殺すにしても、すぐ頭上には細い枝が網の目のように絡み合っている。―棍棒を振り上げるスペースは無い―彼はその場面を脳の奥の方でゆっくり、精細なビデオで検証するように繰り返していた。

 少年 T のお話はここまで。わたしの夢の中で T は今でも時々獲物を追っているが、もう捕まえる気持ちはないらしい。けれど彼らを追い詰めるまでの緊張感と、それを逃れていく動物たちの本当のカッコよさに、いつまでも夢から覚めたくない思いがある―夢の覚め際にかならず T はそう言うのである。

 
 

素顔のわたし①

ある日の夢 (CG)

「新しい日常」という素敵な言葉が、「ウィズ・コロナ」というとんでもない形容語をくっつけられて、しかもあろうことか政治家に取られてしまった。まことにもったいない。でもそれならと、「これまでの日常」「ふつうの日常」はどうだったのか。足元をあらためて見直してみるのも悪くないような気がした。

そんなわけで、先ずは今のじぶんの素顔の簡単なスケッチをしてみることにした。まず外見。とりあえず年齢は100歳未満としておこう。今日(2021.2.5)現在、身長169cm、体重68.1kg、体脂肪率18.5%(軽肥満)で8年にわたる腰痛持ち。重い荷物はできるだけ持たない。頭のてっぺんは禿げ、眼は近眼、耳もかなり遠い。同年の友人と比べると10歳は年上に見えるらしい。どんなシルエットを想像しますか?杖を持った腰曲がりのお爺さん?

顔?素顔という以上、いちおう顔を描かなくっちゃ。―頭は割と小さい(たぶん脳も)が、手入れしない髪の毛が茫々(数は少ない)だから、自分の影を見るとモヘアのようにでっかく見えたりする。眼は糸と毛糸の中間くらいに細く(中学のころ、よく居眠りと間違えられた)、薄い眉毛と目尻は垂れ下がっている。鼻は高くも低くもない。鷲鼻でも尖ってもいない、要するに平均的な鼻。口ねえ。特別に大きく開くこともできないし、おちょぼ口でもないから、これも普通かな。ただ、母の写真を見て気づいたのは、結んだ口角の下にできる「しわ」のかたち。たしか子どものころにはなかったが、年を取ってから現れてくる、これは遺伝だろう。顔全体でいうと、中心線から端へ行くほど地球の重力が強く働いている。顎はとくに四角いわけでもないが、いまのイケメン風に細いこともない。でもまあ、ヒカクテキすんなりしている方ではないかな。無精ひげ以外に髭は生やしていない。歯はまあ健康だと、歯科医の歯っ欠け太鼓判がある。

趣味・・・いちおう俳句はやっているが、まだ「趣味です」といえるほどのめり込んではいない。趣味といえるにはもうちょっと深みにはまらないといえないような気がする。でも10年続けている。わたしの意欲作は句会ではほぼ0点になることが多い。気持ちが空回りするタイプの句なのですね。スポーツには最近縁がないが、若い頃は体を動かすのは大好きだったので今でも興味はある。陸上競技、野球、相撲、水泳、登山、スキーをはじめ、なんでも今でもやりたいと思う。まあ、見るのもやるのも好きだとだけ言っておこう。勉強はひとことで言って「好き」だが、「成果を求めないタイプ」(我ながら上手な言い方ができた)。努力とか根性とかが嫌いな言葉だと言えば、勉強・スポーツの到達度が想像できるはず。

ここまで書いて、これで素顔がスケッチできたかといえば、「わたしのスケッチ観」的には100点満点の3点、かな。一次資料を出しただけだから。

変わらないものがある

「Apple-読書」(CG)

今日は日中の大半、YouTubeを見ていた。昨夜たまたま目にした「オイラーの公式を中学までの数学で理解する」という鈴木貫太郎氏の動画。2、3年前に話題になった、同じ題の本とリンクしているとある。本はそのその当時書店でちらっと見たことがあり、「博士の愛した数式」という映画が話題になっていたころだった。昨年は京都大学の望月新一教授が、数学の超難問のひとつ「ABC予想」を完全に証明したとして国際的な話題になった。だいぶ前になるが、フェルマーの死後300年以上、誰も解くことができない歴史的難問として有名な「フェルマーの最終定理」が完ぺきに証明されたと発表された時も、世界中が大いに沸いたものだった。近年は巷でもちょっとした数学ブームであるらしい。

 わたしを含め、数学の苦手な人は相当多いはず。けれどそんな人でも一方で、数学の持つ抽象的で簡潔な世界に、憧れに似た気持ちを抱いていることは少なくない。数学は科学の第一歩である。数式で証明されたものは、いかに好き嫌いがあろうと、感覚的になじめなかろうと認めないわけにはいかない。真理というものがあるとすればそういうものだ、とわたしたちはなんとなく考えている。それが全然わからないというのは、恥ずかしいというより、本当はまずいのではないかとさえ心の中では感じている。けれど、意を決して数学の本を引っ張り出してみても、これはとても歯が立たないと再び諦めてしまう人がほとんどではないか。

それが、オイラーという数学、物理分野の大天才の数式を中学生までの知識で理解できるというので、頭の隅からずっと離れずにいたのだった。動画を見ると中学生までの数学しか使わないというのではなく、「中学生までの数学的知識があれば、その上に三角関数や微分積分などの説明を加えて」オイラーの公式まで理解できるようにするというものだ。確かに理解力のある中学生なら可能かも、と思わせる平易で見事な説明だった(中身は全然平易ではない)。興味ある方はご覧あれ。東大入試問題として有名な「円周率πが3.5より小さいことを証明せよ」も、さりげないがとても面白かった。

 流れで、ヨビのりたくみ氏(初めて知った)の「アインシュタインの(特殊)相対性理論」も見てしまったが、これも説明がじつに上手。こんな授業を中学、高校でやってくれたらもう少し違う道に進んだかもと思うが、それは仕方ない。コロナ、コロナで世の中沈む一方、しかも対策が支離滅裂状態だが、ハヤブサはちゃんと地球に帰ってくるし、地球の自転も一瞬だって止まらない。ただ現象だけにつられて右往左往するのでなく、変わらないもの、視点の置き場所を考えることで世界はもう少し違ってくると感じた一日。