北海道・三陸後続地震情報

       「山荘の初雪」 水彩 (本文とは関係ありません)

2025年12月8日午後11時15分頃、青森県東方沖地震発生。マグニチュード7.5という、かなり大きな地震エネルギーが発散された。青森県八戸市では震度6強。大きな被害がテレビなどで報道されているが、震度の大きさや発生の時間帯を考えると、(現時点では)死傷者もほとんど無いらしいのはラッキーだといえるのではないか。

わたしの故郷、東通村は震度5強。たまたま早めに休もうと、ベッドに入った直後の緊急地震速報の警告音。次いで「青森県東方沖・津波注意報」から、モニターをオンにし、起床。その時点で注意報が津波警報に変わり、高さ3メートル、しかも既に到達しているという。実家の目と鼻の先にある東通原発もすぐ脳裏に浮かんできた。
 23時30分頃、返信がきた。「15mの高さのところに避難したから心配しないで」とある(東日本大震災を思い出すと、15mなど安全圏ではないが)。妹の家族も緊急避難でき、いずれも寒さは車の中で凌いでいるとのこと。翌日遅く、衝撃の激しさから想像したよりは、ずっと被害が少なかったとメールがあった。

「後続地震情報」というのは、今回初めて発令されたらしい。いくつかの巨大地震の前後を調べてみると、前兆となる大きな地震、その少し後にさらに大きな地震というパターンがあるので(確率1/100)、今後1週間を目途にマグニチュード8クラスの地震が起きる可能性に備えよ、という注意喚起である。
 北海道東岸から千葉県房総半島まで100以上の自治体が対象という。自治体にとっても、個人・法人にとっても半分ありがた迷惑なような、「微妙に重要な」情報である。「注意報」ではなく、形式上は単なる「情報」だから発する側に責任はないが、受ける自治体はそれを無視することもできず、対応に苦慮するのは目に見えている。
 地震大国日本の面目躍如?といったところだが、いわゆる “コスパ(対費用効率)” がめちゃくちゃ悪い「情報」だ。「でも、もしも・・・」想定外の人的被害などが出た時のあと始末を考えると、自治体の地理的条件によっては、(結果的に)「過剰になる」と想像できる対応でも、あえてやらざるをえないところも出てくるかもしれない。なにせ「一週間」の期限付きだし。しかも100%税金なうえ、99%の確率で無駄に終わる可能性があるといいつつ、「気象庁がそう言った」という「言い逃れ」つきだ(と言っては申し訳ないが)。
 自治体としては自力で判断せざるを得ないが、そんな専門家など大都市の役所以外には居るはずもない。じゃあ出さなければいいのかというと、それに真っ向反論する知識もない。

「(災害が)起きてからの自衛隊頼み」ではなく、こうした問題を常日頃から研究、訓練、実施する「災害庁」のようなものを作るべきではないか、という議論が石破内閣で始まりそうだったが、高石内閣誕生と同時に雲散霧消した。災害は内閣の政策に関わりなく、誰が総理大臣であっても、今すぐにでも起こり得る。早急に創設を検討すべきではないか。

おおたかの森-森の美術館

西房浩二作品の一部
展示室から左にカフェテリア。その向こうに入口がある
森の美術館ファサード

招待券を頂いていた「西房浩二展(後期)」を観に、千葉県流山市おおたかの森にある「森の美術館」に行ってきた。西房さんのもう一つの個展のことはすでに紹介した(2025.10.03の記事)が、こちらには彼のごく初期の作品もあるというので、興味もあった。会期は2025年12月21日まで。

今日も朝から快晴。昨日あたりから腰の調子もよく、徒歩で駅から20分ちょっととあったので、ウォーキングを兼ねるつもりで出かけた。20年以上前に「おおたかの森保存活動」のメンバーに誘われ、「おおたかの森」には一度だけ来たことがある。それ以後周辺はどんどん開発され、大きな建物のならぶ “近代都市” になっていた。美術館への曲がり角の目印になっているバス停留所が移動されたらしく、だいぶ行き過ぎてしまった(ウォーキングとしてはよい)。

初めて訪れたギャラリーは、今年で10年目に入ったということで壁面もまだきれいだった。森のほとり(隣接するのは「大畔(おおぐろ)の森」という、ちょっと混乱を招きそうな名称の森)の、こじんまりしているが、なかなか素敵な空間である。環境が良いので深呼吸した気分で絵を見ることができる。入館料は600円だが、コーヒーと小さなお茶菓子付きなので、かなりお得だと思う。

西房さんの作品は気持ちのいい写実絵画である。能登の出身で、現在も能登に住んで精力的に制作を続けている。これからも益々活躍する作家だと思う。

共感

             「椿の実とタイサンボクの芯」  フェルトペン

「共感」、「共有」という感覚が、生活する上でのキーワードだろう、と思う。「一体感」とか「協調」という語も、日本人は好きだ。

裏返せば、「共感できない」「協調しない」こと・人に対しては、そう言う考えもある、などとは考えず、基本的に異分子として「排除する」傾向が強いということにもなる。まあ、これは日本人に限ったことではなさそう、というか世界中でその傾向が強まっているようだが。

「空気を読む」という言葉が流行ったが、造語としては鋭い語感覚だな、と思う。聞けばなるほどと思うけれど、なかなかそういう発想はできないだろう。絵画や彫刻などの美術も実は、そのかたちや色から漂ってくる「空気」を読んでいる、ともいえる。違うのは、「空気」がその場やその時を越えて流れてくることだ。

共感や共有、協調などという意識は、アーティストにとって、ときには邪魔者である。けれど、共感なしに芸術は存在しない。誰かが共感して、その作品を遺してくれないことには作品として存在しないと同然だ。データとして残れば、という人もいるが、それもいつかどこかで、誰かが共感してくれる、という「信仰」に近いものをもっているからだ。そしてそれはたぶん間違っていない。