コンスタント

コンスタントって、派手な感じは全然ないけど、決してマイナーな感じでもない。一歩一歩、堅実に歩む姿を想起させる語感。早くはないが立ち止まってさえいない。そんな力強い感じ。

何事も持続力が大切だ、と怠惰なわたしでもやっぱり思う。持続力を持続するにはいくつかの条件があるに違いない。まず、健康。病気ではまず気力を維持するのが精いっぱいで、一歩なんて考えられなくなるだろう。そうしたらつぎは気力か。これは好奇心とか、向上心などのきれいな言葉に移し替えておこう。それから?

じぶんのことを考えてみると、まず健康は〇。好奇心とか向上心もまあ人並みにあるつもりだから、これも〇。でも、決して持続力があると自負できないどころか、すぐ逃げようとする癖がある。とすると、持続力の次の条件は性格ってことになるかな?確かにわたしは恥ずかしいほどの臆病者だ。だから、面白そうなものでもまず最初に手を出すことはしない。遠巻きに見て、みんなが楽しんで、やがて飽きたあと、そっと自分もやってみる。そんな性格だが、それと持続力は関係あるかな。いや、「そっとじぶんもやってみる」のあと、失敗しても失敗しても、自分が納得するまでやる“我慢強さ?”は、平均よりはちょっとあるかもしれない。でも、コンスタントに進んでいけないのだから、それではなさそうだ。

いや、そういうことより、コンスタントに生きるためにはその先の目標が必要なのではないか。無目的に一歩一歩なんて…あるかもしれないが。わたしには必要そう。目標があれば、それに達するまでの行程がある。それを日々に分割していけば、毎日が変化しつつ一歩一歩進むことになる。それだ!わたしに欠けているのは。―そうだなあ。解っているけど、身につかない「計画性」。性格というより考え方の問題だ。ああ。頭がなあ。

もうすぐ

大学4年生―四月からは“社会人”という“人種”になる

彼女は「青いカモメの絵画教室」でずいぶんモデルを務めてくれただけでなく、大学の先輩、後輩を何人も紹介してくれた。彼女の紹介してくれた人はみんな、クラスに好評だったので、わたしもおおいに助かった。

卒業に必要な単位の中では、わたしの授業のウェイトは124単位中のたった1単位に過ぎない。クラスは男女同数で10~12人だったか。たった14週(月4週と計算すると3ヶ月ちょっと)の授業で、「建築のスケッチができる(ようになる)」とシラバス(全国に公開するすべての大学の授業予定表)に載せる以上、カリキュラムはキツめに作らざるを得なかったが、わたしも学生たちも、今から思えばまだなんとなくのんびりできていたように思う。

彼女たち一年生への講義を持ったのは、コロナ蔓延の一年前。その後のコロナで、大学も社会も、大きく様変わりした。14世紀のヨーロッパで、人口の3分の1が亡くなったと云われるペストの大流行。簡単に比較はできないが、日本だけでなく世界中の若い人たちの将来予測に大きな影を落としたことは確かだろう。長く続けてきた政府の「高等教育敵視」政策ともみえる「高等教育機関の予算削減」。おかげで日本の教育レベルはすっかり地に落ちた。ノーベル賞受賞者が多いと胸を張るが、ほとんどはアメリカなど海外での勉強の成果に頼っている現状を何とかする気はなさそうだ。

初等・中等教育にはやや目配りするそうだが、高等教育=贅沢=国からの恩恵というレベルの認識がいまだに国会議員の行動基準に在ることに唖然とする。そのうえでアメリカからミサイル(システム)を買う予算は今後数年間で5倍にするのだというから、将来彼女(彼ら)の働く環境は現在の北朝鮮に似た環境にならないかと、本気で危惧する。「まさか」と笑う人も少なくないだろうが、わたしには笑えない。日本脱出するにも教育の力が要る。

モノの衝撃―芸術の一撃

「人間は」と言葉にしたとたんに、目の前の人間から、するりと具体的な事実の集積が消え、一枚の紙のように薄っぺらい、ただの「情報」になる。
 「一枚の紙のように」、と書いたところで、キーボードを打つ指を宙に止めた―一枚の紙もまた立体・物体であり、材質も重量もあることを忘れてはいないか?と。「事実の集積」って、具体的な何かなのか?とも考え始めた。


「Art=Fine art(純粋芸術)」、という用語法は、日本語、英語ともに、じつは極めて現代的な用語らしい。Art という語はもともと、技巧・技術=techniqueのこと。特別な技術=アートであり、それは○○職人とか、具体的なモノと硬く結びついているのが自然だった。腹が減ったから何かを食うということは、「食欲」という言葉がない時代では、それは直接的に「食うという行為」以外では「表現できなかった」。「食欲」という「語の発明」が、その感覚を共有するためにはどうしても必要だったのである。


 現代人は視覚と言語(言葉)≒情報(TVニュースやYouTubeを見よ、)で判断するが、逆にいえば言葉を介さない、モノとの直接対峙から一歩遠ざかることで、ナマの事象を見聞きせずに済む、いわば「心の安寧」を貪って(むさぼって)きたとも言える。ところが20世紀近くになって、「『芸術という新しい言葉』を発明して」芸術は「情報≒常識に慣れかけていた現代人」に対してクーデターをしたのである。「食欲」という抽象的な言葉を追い払い、再び「食うという行為」のもつ、ナマのインパクトが武器として使えることに気がついたのだった。芸術は時として反時代的であり、時として時代錯誤であり、時として懐古的だったりする。


 芸術家は繊細な役者であるだけでなく、巧妙な演出家でもある。幾度かの失敗を繰り返しながら、現代人の心の空白にナマのインパクトを与えながら、同時に「オマエノココロはガラスノヨウダ。モット自然でイインダヨ」と優しく耳元で囁いた。
 効果てきめん。いや、効きすぎたのだった。現代人は「芸術はホントウのようだけど、ちょっとコワイかも」と思ってしまったのだった。そういうコンセプトだから、現代の芸術はワイルドであるほどgood。しかし、芸術はいまや「文化」という、ぼてっとした厚手の衣類に自由を奪われかかっている。そしてそこに安住しかかっている。「文化」を脱ぎ捨てれば弱肉強食の凄まじい世界がすぐ目の前にある。穏やかな笑顔を浮かべながら、自分でもよく知りもしないそんな世界を「実はこうなんですよ」と暗示してみせる「モノの衝撃」。しかし、実際、深く見れば見るほどモノは語り始めるのも確かだ。時にはそれを置いた芸術家そのものより深く。さすがに芸術家の嗅覚は鋭い。