波(なみ)

study-An art Gallery owner (water color)

寄せては返す「波」。「反復」と、寄せる(返す)「幅」の2つがセット。ただの反復や幅という、「一次元」では波の要件を満たせない。一定の時間間隔(長さと時間)とズレ?幅を繰り返すという、三次元以上になって、はじめて「波」になる。展覧会場などにいると、さっぱり人の来ない時の少し後に、今度は続けざまに人が来てうっかり対応しきれない、そんな「粗密の波」を毎回経験する(ガラガラは何度も経験しているが、人が入りっぱなしというのは経験したことがな~い)。―「波」とは少しニュアンスが異なるが、ビジネスでも、潮が満ちる(引く)ように、という状況を見聞きすることもある。

「体調の波」というのもある。“絶好調”はいつまでも続かない(不調は続くかも?)。多くの人もたぶんそうだろうが、頭が調子良い時と、身体の調子とが“ねじれ”ることがままある。寝不足で疲れも溜まっている―そんな、一見逆波(さかなみ)的な時に限ってスルスルっといい感じで絵が出来てしまうときは、タイムマシンに乗っている時なんだろうか。

話は75度くらい変わるが、人や団体(会社とか?)にも「好不調の波」がある(わたし自身は会社勤めをしたことがないので、その関係のことは「見聞の範囲内」)。わたしはフリーランスの生き方だから、その波がどういう類のものであろうと自力で乗り切らざるを得ないのだが、(自分にとって)新しいことを始めるのには、その「波の質」を見極めることが必要だ、という気がする。

「2021東京オリンピック」では「サーフィン」も種目になった。出場選手たちにとっては、これこそ究極の「波」だったに違いない。種目に選定されるのも「世論」の「波」。当日自分に与えられる(物理的な)波は「運命」の「波」。波に翻弄され続ける選手たちを尻目に、IOCだけはボロ儲け(アッ!これは、触れてはいけない話題だったかも?)、の波があからさまだった。それになびいたマスコミも「波を読」んだのだろうと思う。

“パソコンが出来る”ってどういうこと?

今さらだが、“パソコンが出来る”ってどういう意味なのか、よく解らない。ということは、わたしはパソコンが出来ないってことだと思う。それは実感とも一致する。

“ブログやYouTubeやってるじゃない”と言われそうだが、それをやることと“パソコンが出来る”ってこととは全然別次元のことだという気がする。今どきはどこの会社でもパソコンなしでは仕事ができないだろうが、会社でそれを使ってる人は皆さん“出来る”人なんだろうか。あるいはゲーマーくらいになったら、“出来る”レベルというんだろうか。そんなことも全然分からない。

これはあくまでわたし個人の感覚だが、①自分でパソコンのスペック(性能の範囲)を決め、部品を注文、自分で組み立てることができる(ハードを理解できている) ②アカウントや各種アプリ、セキュリティなどの設定、管理ができること(情報リテラシー) ③自分のやりたいことをパソコンにさせることが出来る(ソフト理解できている)- この3つすべてを問題なく?出来ることが、わたしにとっての“出来る”の定義?だが、“出来る”人からみたら、きっとこの「定義」自体が???に違いない。ちなみに、わたしが“出来る”人の条件にするくらいだから、もちろんわたしには①~③のどれも「✕✕✕」。

正直言って、パソコンはわたしからはずっとず〜っと遠い存在だ。毎日長時間パソコンと向かい合っているのに、一向に仲良くなれない。それはつまり、それだけわたしよりパソコンの存在の方が大きいってことなんだろう。“出来る”って、使いこなすって意味に近いが、そんなの、死ぬまでやったってわたしに無理だってことだけは、この数年間で一番よく解ったことなんだ。

in put, out put‐Nさんの試み

「石1」Nさんの水彩
「石2」Nさんの水彩
「石3」Nさんの水彩

一般的に入力、出力と遣われる語だが、少し考えてみると put という単語がちょっと意味深に思える。put=置く、というのだから、置くモノが要る。モノだからin⇄out と移動すれば、それぞれ元の場所には無くなるわけだろう。

in put は自分の勉強(時間)、out put はその成果を発信すること(かなり恣意的なつなげ方だと思うが)と、考えれば、勉強(情報収集)は「アイデアの芽」もしくは「種」であり、それが「実」になるまでには一定の年月、経験が要る。それが数カ月なのか数十年なのかはモノにも、人にもよるだろうが、いずれにせよ熟すまでの時間が必要だということだ。

ごく普通に考えても、バケツの中にあるモノを外に出し続けるだけならば、すぐにバケツは空になる。「断捨離中」なら嬉しいが、それが精神的なモノであっても、出し続けていればいずれは空になる。「競争に打ち勝つ」ための「発信力」が強調されがちな昨今、有り余る内容を持っている人や会社、事業体などはいいが、特に何もない人、ところだと、発信する内容を「泥縄的に」作りながらやらなくてはならないこともあるのではなかろうか(「泥縄」なんて、すでに死語ではあるまいか?泥棒を捕まえてから(縛るための縄をなう)という、「準備不足」を戒める言葉。念のため)。

わたし自身が、ずっと前から「これじゃ泥縄だな」と感じていた。インプットとアウトプットの間隔が「即」なだけではなく、逆になるほうが多くなってきたからである。―「青いカモメ絵画教室」のNさんの習作「石1」~「石3」を見ると、Nさんが「インプット」している様子がビンビン伝わってくる。情報を仕入れるだけがインプットではなく、それを自分の中で揉み込み、発酵させているのがよく解る。「発信」が目的ではなく、結果であるという王道の歩みかたを見てほしい。Nさんの「石」はすでにかれこれ数年に亙る。