ざくろと折り紙のスケッチ

「ざくろと折り紙」2023 水彩(コットン紙)

ふたたびざくろを頂いたので、教室の参考作品にしようと数点描いてみた。背景の「半袖シャツ型の折り紙」も、俳句会の際にAさんから頂いたもの。以前に、尾形光琳の杜若(かきつばた)のプリントを、洒落た蓋つきのキャンディボックスに折ってくださったのもこのブログに載せたので、二回目の折り紙登場ということになります(2022/11/19「西洋梨と杜若(かきつばた)」)。

鉛筆スケッチから完成まで1時間半ほど。このステップを細かく作業分けすることができれば、誰でもこのくらいは描けるようにすることができる(はず)。そのステップ分けの分析と作業手順の明確化、一般化がわたしの仕事だ。

水彩スケッチができるようになればいいなあと、思っている人はこの程度描ければ十分だと思う(失礼な言い方で、ごめんなさい)。スケッチに必要なほぼすべてのテクニックが使われているので、技術的には必要十分という意味です。ただ、絵というのはきれいに描ければよい、という次元にとどまらない、もっと深いものがあります。
 それはスケッチ程度じゃ解らない、という意味ではありません。描くこと、見ることを通じて、そこから何を感じとるかが大切だと思います。どんな絵でもよくよく見れば、画面の表面を透かして、その人の感覚や考え方、身体状態、すこし時間をおけば時代の雰囲気さえうっすらと浮かんでくるものです。そういう眼を「自分自身で育てていく」、そしてそこからもう一つ深い世界への扉を開くということです。たぶんそこが「芸術」への「連絡通路」です。そこに入っていかなくても、自分の目で見えるだけで素晴らしいと思います。

 おそらく誰でも、スケッチを続けていると(ストイックに、必死にならなくても大丈夫だよ)、ある日不意に「スケッチとはこういうものなのかも」という覚醒の瞬間が訪れます。何度もそうやって、少しずつ深いものに到達するのです。見た目には別段上手になっているようには見えなくても、解る人には解るようになっていく。そうなって欲しいですね。

13日の金曜日

「うみのそら」(習作) 2001

今日は13日の金曜日。キリスト教国では不吉な日らしいが、ユダヤ教のイスラエルではたぶん関係ないのだろう。イスラエルとハマスの戦い(装備等の差から考えれば “戦い” にならないだろう)に心が痛い。自分のかなりひどい腰痛も、鎮痛剤のおかげでだんだん歩けるようになってきた。気持ちに少しだけ余裕が出来て、この争いに目を向けている。

日本で、一般的に見る報道ではほぼ「ハマスが一方的に攻撃をしかけ」「イスラエルの民間人に多数の犠牲」「イスラエルには報復する権利がある。アメリカは武器も支援」などと報道されている。ガザからの視点報道もあるにはあるが、マイナーな扱い方だ。

「殴ったやつが悪い」のは確かだ。でも、なぜ殴ったのか、その理由を問わないのは論理的ではない。結果には必ず原因・理由がある。
 ガザという、イスラエルが一方的に(今回の報道では “一方的” のオンパレードだ)作った、いわゆる「天井のない監獄」を、(日本も含む)世界が容認してきたことに本質的な問題があることは誰の目にも明らか。そこに生まれた子どもは、生まれた瞬間から終身刑を言い渡されたようなもの。イスラエルが勝手に作った壁の向こうへ一歩も出られないまま、一生をそこで終わらざるを得ない。
 あまりに理不尽、とも見える。その状況を、国際社会は見て見ぬふりをし続けてきた。世界の「人権」管理者であるかのようにふるまうアメリカが、それを容認するのもダブルスタンダードと言わざるを得ない。中国の人権侵害を非難するアメリカだが、アメリカ自身の人権問題には眼をつぶったまま。
 殴った理由の大部分はたぶんそこから生まれてくる。実際にはガザの人々が攻撃したわけではなく、その不満を吸収したハマスによるものだが、鬱積した人々の憤りがハマスへの支持になっていることは報道の通りだと思う。自分がガザに生まれていたら、と想像すれば「報復の権利」の前に「殴る権利」もありそうな気がしてくる。

戦争の原因は複合的だ。どれか一つの理由だけでは始まらない。第一次世界大戦も「サラエボの一発」などと形容されるけれど、それは一本のマッチに過ぎない。マッチを擦ればすぐ火が点くような状況がすでにそこにできていたからで、その状況がなぜできたのかと、いくつもの「なぜ」を追いかけなくては、「2発目、3発目」を防ぐことはできない。
 「人の命は大切」と言いながら、なぜ銃の引き金を引くのか、あるいは引かざるを得ないのか。本音とタテマエ。パワーゲームの前には、人の命など何の意味もないことを、まざまざと見せつけられている。 

3個のざくろから

「3個のざくろ」 水彩

3個のざくろ。ひと枝につながっているのではなく、バラバラのものを重なり合うように置いただけ。自然のものはなかなかこんなふうには配置されない。

よく見ると変なところがいくつかある。赤茶色のテーブルの上に置いたから、映り込みがすべてその色になっている。スケッチの中ではその色は省略されているから、緑の葉はある程度緑色をしていなくてはならないのに、赤茶色のままになっている。見た感じに描けばこうなるが、ここは修正を要する。

腰痛がひどく、描くのがやっと。描く姿勢が長く保てない。制作をYouTube用に撮影したが、撮影も面倒になって、つい急いでしまう。準備中のライトを消し忘れたり、録画ボタンを押し忘れたり、気づかないうちにカメラを動かしてピンボケになったりと、トラブルも続出。急ぐことが原因だが、早く終了して休みたいという気が働いてしまうからだ。そんな気分がきっと絵のタッチにも現れているだろう。

他人の絵を見るときにもそんなものが見えてくる。絵というのはある意味レントゲン写真のようなものでもある。ふだんは見えないものが絵の中に見えていることがよくある。急いでいるような気分は特によくわかるものらしく、若い頃のわたしも「そんなに急ぐ必要はない。もっとゆっくり描け」とよく言われた。焦りのようなものが絵から発していたのだと思う。
 隠しておきたいものほどよく現れる。自分では意識できないものほど露わになるから、絵はちょっと怖い。反対にこれはどうだ、とアピールしたいところなど、すっぱりと無視されてしまう。あるいは鼻つまみになる。いい絵、上品な絵、深い絵が、外見のいい人、上品な人、思慮深そうな人とはあんがい結びつかないのも面白い。