作家と会社

栗と葡萄の水滴

今日は上野、乃木坂と、4つの大きな展覧会を駆け足で廻ってきた(疲れた)。東京都美術館の一水会、国立新美術館の行動展、新制作展、それと企画展の田名網敬一展。今日は田名網敬一展を紹介するはずだったが、会場での写真はちゃんと撮れているものの、なぜか転送ができないのが残念(たぶんiPhoneとmicrosoft との相性の悪さが復活)。

田名網氏は画家であり、アートプロデューサーであり、・・であり・・でありの、マルチな美術家である。アート系の雑誌や、おしゃれな広告、雑誌などメディアでの活躍が凄まじいので、うんと若い人は知らないかも知れないが、多くの人は「ああ、あれを描いた人か」と一度は眼にしたことがあるほどの人。

一人の人間がやれる仕事には限りがある。その「限り」を軽々と越えていくのが天才だとするならば、彼は間違いなく天才である。ピカソと同類の。実際にピカソが大好きらしく、ピカソ風の(と言ったら怒られるに決まっているが)絵を、これでもかというほどたくさん描いている。模倣だとか言われるのを気にしないというより、ピカソ愛のあまり、ピカソになり切って、ピカソより多くピカソ風の絵を描いてやる、という勢いなのである。しかも、それは彼にとっては趣味の一部。

現代において社会で大きな仕事をするには「会社」が不可欠である。彼の仕事のほとんどは、会社という組織との共同作業である。会社というものが彼の力を存分に引き出す力を与えている。経済だけでなく、会社(組織)というものが社会の中で持つ力をまざまざと見せられた。個人の力など、それが原点であるにしても、社会に対するインパクトなど知れたもの。
 一水会、行動展、新制作展など、どこにも有為の才能の持ち主がいて、アイデアや技を競い、それなりの存在感を示してはいるのだが、それが束になっても残念ながら会社には勝てないのである。だから無用だ、というわけでは全然ないのだが。

栗の習作(ペン・水彩)

古代の日本人にとって、栗は高級食材であった。丹波栗などの有名ブランドは今でも高級食材であるけれど、古代ではすべての栗が貴重品だったらしい。

今だって、山へ普通に行って栗を採って来れる人は全人口の何パーセントいるだろうか。流通経済のおかげで、お金さえあれば寝ていても宅急便で手に入れることはできるが、そういう次元の話をしようというわけではない。

栗はドングリよりはるかに有用な植物だった。栗同様、ドングリにも種類があるが、一番多いのは椎の木のドングリだろう。北東北、北海道を除く日本中の野山ではわりと簡単に見つかる種類である。ドングリの中でも「実」の大きいクヌギ(櫟)は高級な方。けれど、ドングリを食用にするには強いアクを抜く、結構な手間がかかる。
 栗は、それらドングリのいずれよりも大きく、面倒なアク抜きの手間がほとんど要らず栄養価も段違いに高い。しかも木は大木になって、建築用材としてもすこぶる有用である。だから、古代の集落の周りには可能な限り栗の木を植えた、らしい。そういえば、現在の三内丸山遺跡の場所は三年間毎日のように遊んだところだったが、発掘以後は行ってない。わたしにとっては必ず行かなくてはならない場所のひとつ。

ついでだが、マロングラッセという西洋のお菓子がある(しばらく食べてないなあ)。マロン=栗というイメージがあるが、実は “マロン” は栗ではない。マロンはマロニエの実で、マロニエとは「栃の木」である。日本では栃餅、栃蕎麦などに使われるが、栗と同列には扱われない。近代日本の黎明期、パリに集った日本人たちのほとんどは、高級人種ばかりで、日本の野山で在来の栗など採った経験などない、栗の実と栃の実の区別などできない連中ばかりだったのだと想像する。
 栗を見ると、いつもそんなことを思ってしまう。

斎藤兵庫県知事と維新

マスカット(水彩)

斎藤兵庫県知事のパワハラ(パワーハラスメント)を巡って、マスコミも、女子会なども盛り上がっているようだ。そこへ維新が知事に辞表を出すよう申し入れた、との報道があった(NHKなど)。

馬鹿じゃないだろうか、と呆れる。維新にもマスコミにも、だ。パワハラが実際にあったかどうかの判断は担当する機関に委ねるとして、まず確認しておかなくてはならないことは、知事が知事である理由は県民が投票したからである。知事の進退は、投票してくれた県民に対して判断されるべきもので、いかに維新出身の知事であろうと、維新の意向でどうこうすべきものではなかろう。単純に、次に予想される衆議院選挙にマイナスになるという思惑の見え透いた、浅はかで間抜けなポーズである。
 同時に、マスコミの辞任圧力には、こちらこそ社会的パワハラそのものではないか、と思う。報道のあるべき姿だとは到底思えないが、NHKはじめ、自分だけが正義とばかり、世論誘導する姿を往々にして見なければならないことは、本物の報道機関を失ってしまった国民の一人として情けなく、恥ずかしささえ感じる。

維新がやるべきことは、自分たちが応援した知事の不祥事(だと思うならば)に対し、上から目線で辞任要求することではなく、まず投票してくれた県民にお詫びすることでしょう。票を投じてくれた県民の頭ごなしに辞任要求するなんて、県民に対するむしろ侮辱とさえ感じられる。維新なんてこの程度だ、と自ら公言しているようなものではないか。

斎藤知事に希望することは、辞任せず、逃げ回り、出来るだけ多くの膿を出し切ること。自らの膿も、庁内、維新の膿も、マスコミの膿も。言葉は悪いが、これからの政治のための犠牲者になってもらいたいということ。一般人ではできない、特別の人だからこその、汚れ役になってもらうことが、一時の県政より有意義なことかもしれないと、勝手ながら思う。幸い、知事は辞任要求を拒否したらしい。