自由・表現―2

Mu.da.i 2021.11.16

前回は、本当の自由を得るためには「自分からも自由になる=自分(の欲望・煩悩)を捨てること」という、ある禅僧の話だった。なるほどなあ、とわたしは思ったが、同時に世の中の99.99%の人には無理かなあとも考えた。

欲望・煩悩を捨てて得られるものは何もない、いや、本当の自分と自分の時間が得られるというのだが、それがどう具体的に現れてくるのかは判らない。そうした「悟り」近い心境に至って初めて見えてくる自分・自分の(行動)表現というものはあるだろうと想像できるし、そうでなければできない表現というものも思うことはできる。

一方、99,99%の人の中には、むしろ正反対に欲望・煩悩に忠実であろうとする人もいるのではないか。「人目を欺く」ことを目的にどんどん先鋭化させていく、そんな方向性。その行きつく先はどんな世界なんだろう。なんだか、わたしには幼虫が自分を羽化させて、蝶になる毛虫の姿が重なってくる。毛虫がその時点での「自分」だとすると、やっぱりそれまでの自分を捨てて-本当の自分になっているんじゃないんだろうか。

そこでは一つの輪のように、同じことの異なった位相を見ているだけなのかもしれない。もしそうならば・・・。でも、どっちにしても中途半端はダメなんだな(いや、単なる位相が本質ならば、それもまた同じことなのかも知れないが)、とわたしは(現時点では)感じている。そしてやっぱり99.99%の人はきっと中途半端な人に違いないとも思っている。

豊橋うずら卵

豊橋うずら卵(習作1)

少なくともここ2年以上、ほぼ毎朝納豆1パックにうずら卵2個を入れて食べるのがわたしの朝食スタイルになっている。一番多いパターンは食パン(6枚切り)1枚(たまにご飯100g)とウズラ卵入り納豆(40g)。それにカスピ海ヨーグルトと大豆ヨーグルトを混ぜたもの200g。そして一杯のコーヒーを淹れる。そうそう、起床時の筋トレあとに牛乳200cc。

昼食、夕食はバラバラだが、朝だけはほとんどそれ。そのせいだか知らないが、内蔵の調子はほぼ安定している。ここ1~2週間、お菓子やポカリスエットなど、スーパーやコンビニで見る「製品」を描いているので、朝食後のテーブルを見ながら、その流れでこれを描いてみた。

そういうわけで、狙いは玉子のほうではなく、むしろ容器パックの方。透明なのでどこがどうなっているのか見えにくい。描いていて感じるのは、普通?なら「絵にならない」モノ、多くの人には(安っぽ過ぎて)絵の題材だと思われないモノだって、描いてみると「高級画材」とそん色ないということだ。難易度も、このウズラ卵だって、花瓶に挿した薔薇より簡単とはいえない。むしろ既製品は皆が知っているので、ごまかしが利かない気さえする。

これを油絵で描いたら面白そうな気がする。若い人がこんな題材を描いた絵を出品することがあるが、なるほどとうなづけるところがある。もう少しこんなこと続けてみよう。

鉛筆デッサン

鉛筆デッサンー1

鉛筆デッサンー2

青いカモメの絵画教室。水曜日の水彩クラスで鉛筆デッサンをしました。クラスからのリクエストです。幹事の方から「明暗表現について勉強したいという要望があります」と連絡があったので、教室でそのことについて、どうやるか話し合った結果、①明暗を見る訓練 ②明暗の使い方 の2段階で勉強することにしました。基本のキを再確認したいということなのでしょう。

①については「鉛筆デッサン」をやることにしました。②についてはまだ決まっていませんが、明暗表現について巨匠たちの作品例を分析、練習作品の制作、の2段階でやることにしようかと考えています。「鉛筆デッサン」第1回は「リンゴと石膏像」。3つの組み合わせを用意しましたが、2つが選択され、これはそのうちのひとつ。

「デッサンー1」は教室で時間内に、わたしも描いてみたものです。明暗表現ですから、明るさ・暗さは最低限4段階は見分(描き分け)けたいもの。そしてそれを(再現的に)表現する。それがー1。

ですが、さすがに実質2時間ちょっとでは、見ることはできても、表現までの時間は足りません。しかもこのモチーフは今回のみ。そんなわけで、土曜日午後、現場写真に光線条件をできるだけあわせ、写真も参考にしながらさらに3時間近く一人で描き込んでみたのがー2です。表現が硬くなってしまいましたが、久しぶりに画学生になった気分でした。最近、再現的な描写や鉛筆デッサンなど、現在のわたしの方向性と真逆のことをやるはめになっています。それが逆に新鮮に感じたりするのは、わたしの本質がアナログ的な人間だからなのかも知れません。