A G T (America’s Got Talent)

Kamome (CG)

最近、たまにYouTube でAGT(America’s Got Talent:アメリカの新人発掘番組。始まりは英国の「UK got Talent」)を見る。そこでは「天才」というのはやっぱりいるんだなあと感心する。登場する人は歌手が多いけれど、「音楽の分からない人」を自認する私にさえ、「この人は、持っているモノが違う」と感じさせる。それが「天才」というものなのだろうか。

凡人には努力、環境、遺伝 etc…どれも必要なもののように感じられるが、「やっぱり天から授かった才能!」は別世界のものなのだと思わせる、それが「天才」。共通しているのは「自分自身に対する『絶対的な』信頼」。そしてもう一つ、「自分を認めてくれる場所へ行く」行動力。さらに、冷静ともいえる「謙虚さ」。天才はなぜか奢らない。それが新鮮な発見。それも魅力。

天才はよく高い山に喩えられる。高い山からは、それ以下の山の頂やそれぞれの特徴がよく見える。麓にいたのでは、どの頂が高いのかよく分からない。もちろん麓が凡人である。-この喩えは頂の高さだけでなく、麓の重要さをも暗に伝えている。天才を支える「麓」の重要性である。それをファンと呼ぶのかもしれないが、とにかくそういう人々が天才を「天才」にする。舞台を作るのは天才の仕事ではなくファンの力なのだと、この番組を見て思う。

一方で天才とは野生の蘭のようなものかな、とも感じる。蘭は植物の中では一種の敗残種。競争に負け、少ない栄養と厳しい環境で生きていくことを選択した生命だ。目立たない薄暗がりが彼(女)らの場所。愛でる人は少なくないが、育てるのは難しく、たくさんの栄養と光の中で大木になることもない。ふと、なぜかエディット・ピアフを想う。

図書館が開かない

Apple on the book (study, CG)

2020年12月下旬から、県立図書館などずっと休館が続いている。「不要不急」がむやみに使われているいま、図書館も不要不急の対象ということなのだろう。

図書館に本を借りたい人が行列を作っていたり、本棚の間が通勤電車のように人がぎっしり詰まっている光景を私はまだ見たことがない。だから少なくとも「三蜜(小池都知事が提唱した、実にくだらない省略語=密閉、密集、密接)」が休館の理由ではないはずだ。もし三蜜を理由に休館した公立図書館があるなら、そこは高度な文化地域だと逆に誇ってよい(休館前は「マスク」「離れて」「1時間程度」と怪しい館内放送はしていたが)。

大相撲が終盤に差し掛かっている。上位3強不在の盛り上がらない場所だが、それでもチケット購入の抽選に受かった5000人の入場者が国技館に集まっている。私は大相撲ファンの一人でもあるが、正直なところ、5000人の根拠はよく分からないし、三蜜でない(朝の)通勤電車があるとも思えない。それでも問題視されないのは、それが生活に不可欠だから、ということだろう。人には娯楽が不可欠だ。だから大相撲はいい。それは賛成だ。で、「知識や思索、教養」は生活には「不要不急」。なるほどそうか。

たしかに、少なくとも自民党国会議員にとっては「知識」「思索・教養」は不要不急どころか「禁止」にしたい「敵」なのだろう。菅首相の「学術会議会員任命拒否」は実に馬鹿正直なほどそのことを表している。彼らが求める「知識」や「思索・教養」とは、もっぱら経済活動(簡単に言えば会社のため)を進めるためであり、「思索・教養」とは「黙って指示に従う」従順さと、「長い物には巻かれろ」という思考停止状態を「社会のために役立つ」と勘違いさせることなのだろう。

そう考えれば図書館休館が長引くことは、よ~く理解できる。できることなら、「不要不急」の耐震診断とかやって、壊してしまいたいのが本音かもしれない。でも、そんなことをしているようでは、日本の未来など、没落以外の想像はできない。「ステイ・ホーム」のいまこそ「温故知新」、新しい知識や考え方、深い思索を育くむチャンスだろうし、それなくして「コロナ後」など老害地獄にしかならないだろう。公立図書館があまり活用されていないのは確かだが、だから休館しても大したことはないと思っているなら大間違いだ。むしろ、こんな大事なタイミングで、なぜ利用価値が見直されないのか、そもそもなぜ図書館があるのかを考えることは重要なことだと思う。生死を分ける「医療」と同列だとまでは言わないが、GO TOトラベルや何とかイートの比ではない、とは思う。

不要不急―2

「黄色の中の黄色の Apple」(study:CG)

2020東京オリンピックが延期になり、2021の8月に開催される予定も中止せざるを得ず、2032年立候補を考えている」と英タイムズが報じた。政府はやっきになって否定したが、検討していることはおそらく事実だろう。(日本のマスコミがこれを報道できなかった理由はなんでしょう?)

もういい加減に、世界中にごまかしをばら撒くのはやめたほうがいい。政府はやたらと「安全安心」も付け加えるが、この情勢でそんな言葉を使うこと自体、世界からの不信感を増すだけだ。かと思えば、すぐに「無観客での開催も検討中」と、これは公表した。なんで「安全安心」なのに「無観客」なのか、その論理の非常識さは幼稚園の幼児でもわかる。

オリンピックこそ「不要不急」の代名詞だ。いや、不要不急どころか、いまやってはならないと、国民の7割がアンケートにそう答えている。「人類がコロナを克服した証としての開催」だって(笑)、ちゃんと克服してからやればよいだけのことで、悪い冗談を通り越して不愉快である。けれど、「2021東京オリンピック」は不要でも、スポーツが不要だというのではない。むしろ逆で、こんな時だからこそ、どうやってスポーツを生活の中に普及させるられるか、じっくり考えてみるいい機会だと思う。

選手は気の毒だ。彼らの努力が並大抵のものではないのは誰でも知っている。だからこそ、きちんと中止だと伝えるべきだし、オリンピックだけが、メダルだけが選手のゴールではない社会環境を、このタイミングだからこそ作っていくべきだと思う。同じように、芸術・文化も不要不急のものではないことを、こういう時だからこそ考えるべきだと思う。まるでステイホーム=テレワークだけが推奨されているかのような状況だが、ステイホーム=クリエイティブ・シンキングこそ大事だと思う。