東日本大震災から10年

3月11日のモデルさん

東日本大震災から10年。このブログも震災直後に始めたから(「青いかもめ」自体はホームページから始まり、このブログで3代目。すでに20年を越えた)同じく10年になる。

誰もが東日本大震災(だけではない)の被災者に同情し、可能な限り助けたいという気持ちを持った(ている)。それは信じることができる。だが、各地の災害報道に触れ、そのことを思うたびにかえって胸の痛みが増すような気がする。被災者にとってどうすることもできない自然の力と、そこへの援助システムの貧しさ、それが痛みの本質。

「日本は災害大国」という言葉も毎度のように為政者の口の端からこぼれる。救助用のグッズや医療などの技術は進歩している。けれど、システムは江戸時代と基本的に変わらない。避難所がお寺や神社から体育館になり、使い古しの衣類がブルーシートや災害用毛布に変わっただけ。可哀そう、気の毒、我慢という感情レベルで終わってしまう(もちろん擦れすら無いよりはましだが)。「寄り添う」などという正体の無いことばや優し気な音楽を流すだけでなく、もっと具体的な結果に結びつける考え方ができないものだろうか。人権に対する配慮など、むしろ江戸時代より劣化しているのではないかとさえ思える。

エンジニア、自然科学者だけでなく、あらゆる分野の専門家たちの活発な意見が必要だ。現状では政府や首長たちの諮問を待つ少数の専門家だけが、彼らの意向に沿うような方向性を述べるだけのように見える。わたしたちももっと考え、発言し、彼らを動かさなくてはならない。そういう意識を持つことが大切だ、と思う。「復興」という言葉を聞くたびに、それが「人を呼び込む」とか「経済の活性化」とか、まるで選挙運動か商店街の寄り合いのような言葉に置き換えられているのを感じる。ゴールの具体的な姿への議論がないまま、「復興」という感情的なイメージだけが先行しているように感じる。「これが復興という意味だったの?」という絶望に変わらないことを。

立春

「立春」(CG)

コラージュのような効果ですね。「コラージュ」とは、一見意味の通らないバラバラの写真や新聞記事、布切れなどを画面に貼り付け、貼りつけられたモノとモノ、画面の主題(?)とが心理的、抽象的に結びつく効果を狙った、近代絵画の技法のひとつ。

正直に言うと、この効果は必ずしもはじめから狙ったものではありません、残念ながら。まだ新しいお絵描きソフトに慣れていないので、あれこれやっているうちにヒョイとできちゃったのです。下の骨は数日前の絵を再利用(!)しています。

緊急事態宣言が1ヶ月延長されました。東京で500人以下とか大阪で300人以下とか言っているが、そもそもPCR検査を国民全員にやるのが最善最短の道ではないかな。莫大な費用(すべて税金前借り)を助成金とかにかけているより、国民も納得できるし、そのあとの費用も少なくて済むのではないか。皆検査ができないのではなく、やりたくないのでしょう。国民全員にワクチンを接種できるなら、検査だってできないはずはありません。検査の方が簡単ですし、今からでも遅くはないと思っています。

一安心したらまたGO TOをやる構えでいるのも腑に落ちません。アクセルを踏んだりブレーキを踏んだり、何がしたいのかわかりません。できるだけPCR検査をして、まずは事実を把握する、どの国もそうしているのになぜ日本だけ違うのでしょうか。事実を把握できずに有効な対策ができるとでも考えているのでしょうか。基本的な考え方をせず、ただ右往左往して「国民を困らせる政治」をやっているように見えてしかたありません。今日は129年ぶりの2月3日の立春だそうです。

コロナを通して自分を見る

Non-titled (CG)

先日までと違うソフトで描いてみた。イラスト系のソフトにはたいてい「チュートリアル」という手引きのvideoがついていて、それを見てからやるのだが、手引き通りにスムーズにいったことはただの1回もない。最初の最初からつっかえて、そんなはずは、と何度もビデオを見直して、それでもなぜか手引きのようにはいかないのが「普通」。のたうち回ったあげく、ようやく分かった気になっても、最初の最初にたどり着くまでにそこからさらに数時間もかかったりする。手引きではたったの1秒で通過しているのに。以前のわたしなら怒り狂ってパソコンを破壊しかねなかった。今もかなりイラつきながら、そういうイデオムなのだと思うようになってきた。

ソフト開発者の多くは画家やイラストレーターではない(らしい)。チュートリアルで「やり方を実演する」デザイナーも、(説明時間がかぎられているから)それぞれ自分のレベルで早口で説明するのだから、初心者は戸惑って当然。そのことがが分かっただけで、だいぶパソコンの傷が減り、わたしの血圧も安定してきた。

新しいことを覚えるには膨大な時間と労力が必要だ。パソコンの知識・理解力から考えると、わたしには普通の人の3倍以上の根気が要るようだ。コロナ禍の今、たまたまその時間が与えられたのだと思っている。

多くの人がそうであるように、コロナによって私の生活も大きな影響を受けている。つらい影響の一方で、わたしは数年前と人が変わったように歩くようになり、歩きながらラジオでいろんな知識を得るようにもなった。偶然にパソコンも入れ替え、様々なソフトも導入した。

考えてみれば、コロナ禍があろうとなかろうと、わたしはもっと早くに自分を変える必要があった、と思う。もしコロナが無かったら、わたしは自分を変える最後のチャンスを失っていたかもしれない(実際にはもう手遅れだとしても)。人類史的にみれば、ウィルスは多くの生命の進化に寄与しているという面もあるらしい。―かすかにうなづく自分がいる。