展覧会の終わりと美術展のオワリ 

会場風景

銀座・ギャルリー志門でのグループ展「風土に生きるⅧ」展が16日終了しました。コロナ下、わざわざおいで下さった方ありがとうございます。わざわざお電話、お葉書など下さった方、ありがとうございます。

展覧会の期間中、六本木の国立新美術館で二紀展、独立展や前々回紹介した個展など、いくつかの個展、グループ展も廻ってみた。どれも力いっぱい頑張っている。そこに注がれる膨大なエネルギー、素材の量、資金。そして多くのあらゆる種類の犠牲。そして得られる小さな自己満足程度の喜びと、僥倖のような、ほとんど社会性の無い内輪だけの称賛。「健気」という以上にふさわしい言葉があるだろうか。

「わたしの個人的美術史では、美術の歴史はすでに終わっている」とずっと前に書いた。あらためてそのことを確認した。誰もが絵を描かなくなるという意味ではない。それどころか10年後には絵を描くことはもっと手軽になり、誰もが暇つぶしに描くようにも思う。終わっている、のは「もう付け加えることがない」つまり、美術史的には巻末まで来たということと、(少なくとも現代の日本的な)美術展という形式のこと。

少なくとも現代日本の美術展には個人的な犠牲(負担ではなく、あえて「犠牲」というほどそれ)が大きすぎる。日本独自の団体展という制度は、その犠牲の量を人数で割って小さくするための方法論であり、作家どうしが互いの傷を舐めあって生きる美術長屋もである。作家がのびのびと作りたいものを作り、自由に発表するという理想からは遠すぎる。作家になるということは社会から逸脱するという覚悟、社会的自殺の覚悟が要る、といっても過言ではない。家族まで巻き添えにして、たまさか運よく流行作家になれた人だけを見て、その犠牲的精神を格好いいと思うのは時代錯誤であり、それを強いる似たような社会的抑圧(たとえば女性の社会的地位)の風土と通底する。

いまはインターネットがある。インターネットがそれらの問題を一挙に解決するなどという妄想は、さすがに妄想家を自認するわたしも持たないが、最低でもその一部を軽減してくれる程度の力はすでに持っている。創作の厳しさ(努力)と身体的、社会的犠牲とを混同してはならない。創作の厳しさは、自分自身が解放される場所からでなけれ乗り越えられないと思うからである。

みんな、絵を描こうよ!

木立ベゴニア‐下描き

いつ以来か、もう忘れるほど実に久しぶりに東京へ出かけた。銀座での知人の個展と、秋の美術展を六本木の国立新美術館へ。ここまで不義理の連続。義理と人情を重んじる渡世人なら、すでに100回は腹を切らなくちゃならなかった。ずたずたどころか小間切れだ。

銀座4丁目交差点に出ると、わあ、人が一杯いる、と最初は感じたが、落ち着いてみるとやはり相当に少ない。美術館のロビーは普段は平日でも人で一杯なのに、今はガラガラ。ガラス壁に沿って置かれていた椅子も大分間引かれて、換気のいい戸外のテラスに配置されている。館内も異様なほど静か。

今日は行動美術展と新制作協会展。出品されている絵はいつもの感じと同じような気がするが、例年以上に亡くなった会員の数が多かった。享年を見ると高齢者だけでなく、40代とか若い人も結構いる。じわじわとコロナのストレスが影響しているのかも知れない。いずれ新型コロナと人間のあいだもお互いに慣れてきて、毎年一定の犠牲を祭壇に供えるように落ち着いていくのだろうが、それでも新型コロナ以前の状態に戻ることはもう絶対にない。苦しくはあっても、少し長い目で見れば人類の進化の一コマに過ぎないのだろう。

数十億年後の太陽系では太陽が死を迎えるらしい。つまり太陽系が消滅する。そんな遠い未来に人類どころか生命などというものが存在しているかどうかさえわからないが、とにかくその時点では地球も当然消滅しているという。人類がどんなに高度な文化を築こうと、そこではすべてが太陽と一つになって灰となる(元素に還る)。では究極的にはすべては無駄なのか、と言えばそんなことはない。生きていることと死んでいることに大差ないと(哲学的に?)考えれば、それだけ今を自由に生きる方がオトクということになる。だから、みんな、くよくよせずに絵を描こうよ。

「期待に応えない」強さ

この美しさも誰かに見てもらうためではない

「期待に応える」ためには相当の努力が要る。その努力を周囲は称賛し、幸運にも結果を残すことができれば輝かしい人生となる。それが社会(の掟)だと、わたしたちはそれらの言葉も知らないうちから教育されてきた。期待に応えられない人々はダメなやつだと烙印を押され、社会の中で底辺に押しやられ、場合によっては体よく排除される。期待に応えられないことは一種の恐怖である。だから、「期待に応えない」という意思には、ある意味で「期待に応える」以上に強靭な精神力が要る。

パラリンピックのメダリストなどが「諦めなければ誰でも奇跡を起こせる」「努力すれば誰でもなりたい自分になれる」などと言うのは、似たような境涯にある人だけでなく、広く若い人に希望を与えるという意味で、社会的な「効用」がある。彼らの言葉はもちろん本心からのものであろう。けれどその発言は、「努力することの大切さ」という「道徳的効果」として本心とは切り離して称揚、利用される。彼らもまた自らの発言の意味、その効果はよく理解している。けれど彼らは「期待に応えることができた」一種のエリートであることを忘れてはならない。はるかに多くの人たちが、そういう努力が可能な環境にさえ恵まれていないということを、わたしたちは知っている。「努力するのが当然」という社会認識は一種の圧力・強制力でもある。それを心理的に苦痛と感じる方が、むしろ普通の感覚ではないだろうか。

一方、芸術家というのは、本来「期待に応えない」という意思を鮮明にした人々である。芸術は何かを期待されたりすること自体が矛盾を抱えてしまう。芸術家は広い意味では社会に対して挑戦的ともいえる生き方を選択した人々でもある。芸術家たちが本質的なところでは称揚されず、ことあれば真っ先に政治・社会体制に弾圧されたりするのは、そういう理由からであろう。挑戦的ということは「反社会的」ということを意味しない。むしろ全く逆で、「先進的」と言うべきであることの方が少なくない。企業などが常に技術革新など変化を求める経済社会とは裏腹に、生活レベルでの社会というものは変化そのものを嫌う、とよく言われる。パソコンの苦手な人々が、無意識のうちにそれが得意な人々を憎みがちなのはそういうことだ。だからぬくぬくと、一つ所で満足できる自分たちとは異なるものに、「反社会的」というレッテルを貼ってその流れを押しとどめようとする。「今の若い人は」とわたしたち老人が眉をひそめるとき、そういう心理が働いているかも、と考えてみることは間違っていない。

期待というのは「誰かに」求められているものだ。その「誰か」が誰なのかを考えることは無駄ではない。芸術家は誰かに何かを期待されることを望まない。それはうっかり自分以外の人間になろうとする危険があるからだ。努力は人を磨きもするが、自分を無駄にすり減らしてしまう可能性も持つ、諸刃の剣である。正直に言えば、他人の期待に応えようとする努力は誰にとっても無駄だ、と思う。自分が好きなことを自由にやることこそ、そのような圧力に押しつぶされようとしている人をも解放するものだと信ずる。誰にも期待などされず、期待されても無視し、自分のやりたいことをできる範囲でやる。そんな「強い意志」がわたしにはまだまだ足りない。