田中希実(のぞみ)選手に注目

人形

オリンピックもあと…8日後。開会式、閉会式がどうとか、パラリンピックの開会式がどうとかメディアだけが騒いでいる印象だが、ほとんどの会場が無観客になったので、会場への人の移動を含め、Covid-19 デルタ型への感染と熱中症の危険度にブレーキをかけた点ではよかった。この状況下でのオリンピックの開催にはたったいまでも反対だが、個々の選手の活躍や記録自体には興味がないわけではない。

陸上競技、女子1500mの田中希実(のぞみ)選手がどんな走りを見せるかに興味を持っている。男女にかかわらず、1500mというのは短距離の力と長距離の力の両方がないとできない種目で、とくにラスト1週の競り合いは“トラックの格闘技“とさえいわれるほど凄まじい肉弾戦になる。男子では最後の100mを10秒台で走る選手さえいる。

短距離と長距離の中間なら普通?と思う人もいるだろうが、短距離に適した筋肉、体型と長距離に適した筋肉、体型はまったく相反するもの。練習も正反対。おそらくメンタル面も。そうした相反する筋肉や身体を作りあげるプロセスとはどんなものなのか、その結果としての、最高の彫刻のようにギリギリまで削り出され、高密度に仕上げられてきた身体(能力)にわたしの想像力は刺激される。それは、わたしにとってのスポーツの極上の馥郁である。健康・娯楽としてのスポーツとはある意味で対極の、非健康的とさえいえるほどの鍛錬と、ストイックなまでの自己管理(考え方も含め)は、なんだか芸術に似ている気もするのである。

やや脱線したが、そういう厳しい種目だから、これまで日本の女子では一人もオリンピックに出場できていない。田中選手が初である。彼女の現在の世界ランクは31位。ランキングというのは、現役選手の自己記録の順位とは必ずしも一致しない。指定される大会での成績がポイント化され、そのポイント数がオリンピックに出場できるかどうかの目安にされる。彼女はまず5000mの出場権獲得のため、そちらの種目を優先したので1500mのランクアップが後回しになった。それゆえの31位である。

田中選手の得意は本当は3000mだろうと思うが、残念ながらオリンピックにはその種目はない。彼女のラストスパートは日本の大会ではいつもとびぬけていて、2位の選手が画面に入らないほどの“ぶっちぎり”が珍しくない。それほどの才能なのに、彼女の持つ日本記録と世界記録との間には18秒もの大差がある。“世界の走り”とはどんなものなのか、それらを相手にどんな走りができるのか、陸上女子1500mに注目している。

「安心・安全」と「お・も・て・な・し」

大根

美しい言葉でも、政治家が口にするととたんに薄汚れた感じがするのはなぜなんだろう。

オリンピックという言葉自体はべつに美しい語でもないが、今ほど地に堕ちたという語感はなかった。安倍前首相が「完全な形での開催」を求めてオリンピックを一年延期した。その方向性をできるだけ忠実に受け継ぐと宣言した菅首相がオリンピックにこだわるのは、いわば公約である以上当然と言えば当然だが、首相自身がかつて感動したと述べるオリンピックの、あるべき姿を引きずりおろし、踏みつけ、穢れたものにしているのが当の本人であり、馬鹿の一つ覚えのように繰り返される「安心・安全」であることに気がついていないのだろう。開催のためには「安心」も「安全」も振り返らない、異様なほど心のこもっていない、からっぽの語。

「お・も・て・な・し」は、フランス語の喋れるある美人キャスターが、オリンピックの招致キャンペーン・スピーチで使った語である。「おもてなし」は日本の美しい文化であるという内容であったと記憶しているが、現代の日本では「おもてなし」≒「おもて(うわべ)だけ」か「その気があってもそんなカネは無い」というホンネの、ブンカ(=文化?)的言いかただということを、ほとんどの人が感じている。現在のコロナ禍など当時は知る由もないが、もしもこの災難がなく、多くの外国人が日本を訪れていたら、「お・も・て・な・し」文化がいかなるものか、たくさんの、二度と消えない思い出となるに違いない。彼女のスピーチを聞いた時から嫌な言い方だと思っていたが、さすがに恥ずかしくていまは普通の人には使えない語となった。

あと3週間で開会式、とニュースで聞かないと思い出さないほど、近くて遠くなった「東京」でのオリンピック。やる以上、これまでのいきさつに関わらず、選手には頑張ってほしいと思うのは自然な感情だろう。だが、選手たちが活躍すれば(つまりメダルをたくさん取れば)、開催を押し切った自分たちのポイントがあがる、と選手や国民をなめた見方をする政治家がいるならば、それはまちがいであることを思い知らせてやりたい。選手個々の目標はメダルであってもよい。けれど、どの国の、どの選手にも、実力を発揮してほしい(メダルなどどうでもいい)、と多くの人は素直に望んでいる。その素直な気持ちをも、また政治家どもが利用しようと企んでいるらしい。「安心・安全」にも「お・も・て・な・し」にもご用心、ご用心。

多数という暴力

プロミネンスの夕焼け。まるでこの世の終わりのよう (2021/06/21)

美術展の審査というのがある。世間(日本?)の「常識」では、芸術家というのは「非常識」な人が多いらしく、少し遠慮して「変わった人」とかいわれている。もし、そのような常識が正しいなら、そんな人たちが選んだ作品を、常識ある人々が納得顔にうなづいている風景は滑稽そのものだ。
 少し規模の大きな美術展になると審査に美術家がまったくいないことさえ過去にはあった。知り合いの画家をえこひいきするのではないか、と世間に思われないようにという配慮からかと「邪推」するが(それがなぜ美術家だけにあると思うのか分からないが)、小説家、評論家、美術館の館長か学芸員、ときにはそれに政治家が加わる。
 審査結果(の文章)はもっともらしいが、何を見ているのか、わたしなら簡単に信用することはできない。もちろん小説家や政治家に絵が判るはずはないなどと非常識なことをいうつもりはないが、そのことに抗議しても無駄である。非常識な美術家の意見など多数派になれないからである。

 多数派が常に正しいか、と言われればそんなことはないと多くの人はいう。でも、「でも」と続く。「でも、多くの場合正しいんじゃない?」。この場合、「正しい」という語と「常識的」とはきわめて近い位置に在る、とわたしは思う。
 常識とは時と場所によっては非常識である。比較的近年まで日本では道端での立小便は「常識」であった。ものの本によると江戸時代では大人の女性でもそうであったらしい。時代劇を見ると、よく家の壁にたくさんの竹の棒が立てかけてある。そこにできる三角形の空間が一種の臨時トイレとして利用されていたらしい。小さなノズルで肛門まで自動的に洗うようになったこの国で、である。
 立小便が常識だったから、それを禁止する法律や教育で「正しさ」を「多数にする」ことが必要になったのだった。

多数派工作とは、自分(たち)の考えが正しいことを数で示そうとして、賛成してくれるよう他人に働きかけること。わたしたちは小学生の頃から、例えば学級会などでも多数決でいろんなことを決めてきた。多数派の意見が採用されるわけだから、考えがある人はそれを論じて他人を説得し、自分の意見、アイデアに賛成してもらう、つまり多数派を形成しようとするわけだ。あるいはその意見に与することで多数派の傘の下に入ろうとする。それをどこかで、民主主義という語に半分くらいすり替えられて教わってきたのだが、実は「数は力」という「実力行使の別の顔」の使い方を繰り返し学習してきたのだった。

 「でも、多くの場合正しいんじゃない?」とやっぱりわたしも思い、それに従ってきた。しかし、最近は「多数」とか「常識」ということを脅威に感じるようになってきた。
 芸術の世界では「個」以外に存在の価値はない(そもそも芸術家と自認する画家などいないのだが)。100人の画家がいても、みんな同じなどと考えている画家はいない。だから、「多数という実力行使」=暴力にはまったく無力である。そのことはコロナ禍にあって際立ってきたが、ことの本質はコロナがあろうとなかろうと、「多数が正しい」と信じる一種のカルト宗教が世間を支配していることに気がつかないか、気づかないふりをして多数派でいようとしている人々が圧倒的多数だという現実である。