オリンピックが始まった

7月24日夜の開会式からオリンピックが始まった。ドローンの飛行演技?以外はほぼ中身のない薄っぺらい、あるいは意味不明のパフォーマンス。コロナ禍ゆえに派手さを控えたというのとは違う。思想の浅はかさが正直に出ただけだ。小学生レベルの学芸会を国家規模でやっただけの、まさに税金の無駄遣いのシンボルとなった。ドローンの飛行は来たるべき戦争や支配のかたちを先取りしているようで、不気味な未来を感じさせた。

翌日から連日柔道の金メダルラッシュ。これで国民もすっかり「感動」してしまったのだろうか?オリンピックに開催反対の意見を社説で述べていた朝日新聞も、すっかりオリンピック広報機関の一つに自ら変貌してしまった。あの社説の意味は何だったのだろう。開催してしまったから、今さら反対の意見を維持するよりは流された方が得策だということなのか。じつに聞き分けのいい新聞社だ。そのようにして太平洋戦争に加担した反省をもう忘れたのだな。そのくせ8月15日が近づけば、きっとまた他人事のように「反省」を国民に説き始めるに違いない。

IOCのバッハが「前半で日本選手が活躍すれば(日本国民は)すぐオリンピック支持者になる」と日本国民を小ばかにしたが、メディアを見る限り、バッハの言う通りだといえるだろう。

とはいえ、アスリートには何の罪もない。彼らはひたすらアスリートたらんとしているだけだ。日本人のアスリートが判を押したように「こんな状況の中で開催してくれて感謝」を述べ、メディアがまた偉そうに「支えてくれた皆さんにひとこと」と暗に感謝を強要するインタビューの締めくくり方が、「ああ、これが日本の文化だ」と、哀しい思いになるが。

ブラック・オリンピック

鳥のいる構図

オリンピックが始まった。とたん「オリンピック」の語がメディアから薄くなり、替わりに「Tokyo 2020」が前面に出てきたと感じる。すったもんだと手垢にまみれ過ぎた「オリンピック」のイメージを少しでも都合のいいように変えたいのかな、と詮索したくなる。

明日午後8時から開会式なのだそうだ。わたしの周囲では時折思い出したように「オリンピックっていつから?」と言い合っている。そのくらい盛り上がっていない。一方、ラジオやネットを見るたびに関係者の誰それが辞任とか解任とかが報じられる。NHKなどでは「異例の事態」などと間が抜けた感じで伝えているが、ほとんどの国民はすでにあきれ果てているのではないか。「安心安全な大会を通じて、震災から復興した(現政権下ではすでに死語化した)日本を全世界に発信する」が正真正銘のコントになってしまった。政府、組織委員会の会見を見聞きするたびに暗い笑いがこみあげる。

これほどまでに哲学のない国。ここまで教育の質の低下と歪みが浮き上がって見えてきた日本。皮肉なことに、オリンピックを巡るこのドタバタで、やっと国民にも日本の本当の姿が見え始めてきたのではないか。女性蔑視発言などに表面化した、口先だけの「人権」意識。近・現代史にそっぽを向き続けた歴史教育による、現代への歴史的視点の欠如が特に顕わになった。

開閉会式のショーディレクターの、かつてホロコーストを揶揄した経緯による開会式前日の解任など、もしも近・現代史を学んでいればあり得なかったであろうその幼稚さは、この国がどんな国になろうとしているかという哲学の欠如が結んだ、不幸な焦点だといえよう。皮肉にも、そのことをやっと国民に納得させたことが、菅政権によるオリンピックの、唯一の成果であり、意義となるのかもしれない。

ちゃんと開催する努力が感じられない

3個の西洋梨(加筆)

「ちゃんと開催する努力が感じられない。」アメリカの通信社の記者が「東京オリンピック2020」の海外メディアへの対応について語った言葉らしい(文春オンライン、7/17配信。及川記者)。なるほど、でもあり、やっぱり、でもあった。

このように大きなスポーツの世界大会では取材するメディアへの素早く、責任あるレスポンス(応答)とサービス(情報提供、代替案の提示など)が主催者には求められる。コロナ禍によって人の移動が制限される中では、さらにオンラインでの情報サービスが普段以上に必要だ。このコロナ禍の下での開催は、通常の大会以上に周到で、責任が大きく、難しい準備を強いられるのは仕方ないとしても、メディアからの疑問やリクエストへの対応が、アメリカ国内の一競技大会にも劣るのはどういうことか、というものであった。

コロナ禍での開催準備は、確かにこれまでの開催都市には無い特別な難しさがあるだろうとは誰でも想像できる。その対策と準備を両立させることが難しかったから一年延期したはずだ。コロナ対策は状況によっても大きく変化する。準備も影響は受けるが、コロナに関わらず進められる分野もあるだろう。国内外のメディアだけでなく、教育機関、文化施設などからの取材、提供のオンライン化への一層の推進、進化。大学のオンライン授業、企業のテレワーク化を進めているなかで、「水際作戦」などと言っているより、そもそも取材に来日しなくても済むほどの(オンラインによる1:1インタビューも含め)豊富な情報を提供できるようなシステムを作れないか、とか。そんな準備が過重ならば「中止」という選択肢もあった。

オリンピックに限らず、国会やニュースなどでも常に見られるように、いまの政府や組織の情報の出し方は、何が求められているかではなく、行政側が「何を見せたいか」に一方的に偏っている。「できるだけ見せない、知らせない」「誰が責任者か明らかにしない」といった、「お上」の発想からまったく抜けていないどころか、むしろ逆行しているとさえ事あるごとに思わされる。「伝えたことだけ持って帰ればよい」という威張った態度から、「行政はサービス業なんだ」という発想に変われない。それは国民が選挙を通じて要求しなかったからであるが。そのような発想、態度が世界のメディアを苛立たせるのだろうと想像するのは容易である。

何のための一年延期だったのか、一年の延期の間にどんな努力をしてきたのか、その結果がこの程度なのか?という、主催者に対するがっかり感が目に見えるようだ。