さくらクラブ

火曜日水彩クラスは自称「さくらクラブ」である。どことなく政治家の組織のようにも聞こえそうだが、れっきとした?「絵画専門」クラブだ。このクラスの特徴は人数が多いこともあるが、「元気がいい」ことと「やりたがり」。新しいことなら何でも飛びついてみる。最近は、出題のタネが不足して少々苦しい。それで、ネタ仕入れのための時間稼ぎもあって、時々難題を出してみるが、逆に返り討ちにあうこと多々。

人数が多いので、2~3回に分けてぽつぽつ紹介しましょう。

Yさん

本人はこんなモチーフはあまり続けたくないというが、描きぶりは結構熱が入っている。実物がそばにあるから、まったく同じ色を再現できないのが不満だろうけど、もともとインクと絵の具は別物。でも、力強くていいじゃない?中身のチョコレートなど、実際につまめそうなほど立体感もある。

Sさん

印刷の「照り」まで描くのは難しい。それは自然現象を再現するようなもの。でも、この渋い深い色はさすがです。実はこの色の下には「墨」でモノトーン素描が施されているんだよ、隠し味、すごいね。メインはチョコレートだが、後ろのグミの存在感も立派。

Tさん

課題は鉛筆で(自分なりに)できるだけ細密に描いてみることと、それをモノクロで塗り分けてみること。色は“余裕があれば”のつもりだった。だから、本当はこれで終わり、のはずだった。「正確そう」に描くのが苦手なTさん、必死で頑張りました。

Tさん‐2

“終わった~”と一息つけるはずだったが、周囲が黙々と色を着けるのでやむなく自分も。色を重ねるには「しっかりモノクロで描いた」ことが裏目に出る―のは解っているが仕方ない。再び必死。007ではないが二度死んで、どうやら自信を持って復活できたらしい。

「CGスケッチ」の(逆)効果

シャトレーゼのチョコパイを描く(制作中)

今日は一日中この2~300円台のチョコパイにかかりきり。ここまでで半分くらいまで来たかどうか。(CGの)手描きで、できるだけ自分の眼で見たまま描くことが、最近のこの“お菓子シリーズ”?のコンセプト。透明フィルムの包み紙の反射が目を傷め、「座りっぱなし」が脚の血流を悪くして睡眠障害を引き起こすのは解っているが、それがフィルムの透明感の表現に必要だと思うからどうしようもない。

手描きCGというのも変な言い方だが、紙と鉛筆、絵の具はCGだが、たとえば直線を描くツールや、グラデーションをきれいに処理してくれるツールを使わないとか、要するに「描画」に関しては、「実在の筆や絵の具で再制作可能」なことを前提にするということ。画像とその制作プロセスをデジタル情報として保存することだけを目的にしたCGによるスケッチを、わたしは勝手にそう呼んでいる。

CGだから、うまく描けるということはある。まず、「覆水を盆に返せる」。一度こぼした水はもとに戻すことができないという、文化人類学上数千年の「常識」をひっくり返して、失敗した線や色を簡単に完ぺきに消すことができる。いったん消した線を、数日(年でも)後完ぺきに復活することなど「常識」だ。他にもいろいろ有利な点はある。けれど、根本的にデッサンができない人が CGならデッサンができるようになる、という「魔法」はない。デッサン力は単なる描写力ではなく、観察力などを広く含む「総合力」だからである。絵は写真を下敷きに描けばデッサンが正確だとか、そういう次元で済むものではないのである。

けれど、たぶんCGで描く意味はそういう次元にとどまらない。描いている自分自身でさえ気づかないところに、より大きな意味があるだろうと感じるが、それが何かは今のところ自分でも判らない。1年前はCGで描くのが面倒で億劫。スケッチブックに描く方が(慣れているぶん)何倍も効率が良かった。なのに、今は完全にiPadがスケッチブック代わり。iPadに限らないが油絵や水彩同様、CGであろうと描き方、塗り方の順序を変えると難しくなったり、簡単になったりするから、時々実際に自分の「手」で描いているような錯覚に陥る。それが生きている感覚に与える影響は些細に見えて、たぶん「小さくない」。

「CGの方が良い」と受け取ってはいけない。実作の大きな利点は「失敗する」こと。CGでの失敗は、数秒でリカバリーできる。けれど、実作ではそうはいかない。失敗することで、脳だけでなく全身が活性化する。そこが「魅力」だと解るようになったのはCGスケッチの効果だ、と思う。人が「失敗から学ぶ動物」ならば、「失敗しないCG」はわたしたちを退化させる“絶好の道具”になるかも知れないですね(CGそのものはまったく否定していませんよ。念のため)。

自由・表現―2

Mu.da.i 2021.11.16

前回は、本当の自由を得るためには「自分からも自由になる=自分(の欲望・煩悩)を捨てること」という、ある禅僧の話だった。なるほどなあ、とわたしは思ったが、同時に世の中の99.99%の人には無理かなあとも考えた。

欲望・煩悩を捨てて得られるものは何もない、いや、本当の自分と自分の時間が得られるというのだが、それがどう具体的に現れてくるのかは判らない。そうした「悟り」近い心境に至って初めて見えてくる自分・自分の(行動)表現というものはあるだろうと想像できるし、そうでなければできない表現というものも思うことはできる。

一方、99,99%の人の中には、むしろ正反対に欲望・煩悩に忠実であろうとする人もいるのではないか。「人目を欺く」ことを目的にどんどん先鋭化させていく、そんな方向性。その行きつく先はどんな世界なんだろう。なんだか、わたしには幼虫が自分を羽化させて、蝶になる毛虫の姿が重なってくる。毛虫がその時点での「自分」だとすると、やっぱりそれまでの自分を捨てて-本当の自分になっているんじゃないんだろうか。

そこでは一つの輪のように、同じことの異なった位相を見ているだけなのかもしれない。もしそうならば・・・。でも、どっちにしても中途半端はダメなんだな(いや、単なる位相が本質ならば、それもまた同じことなのかも知れないが)、とわたしは(現時点では)感じている。そしてやっぱり99.99%の人はきっと中途半端な人に違いないとも思っている。