オリンピック陸上女子1500m

2021-夏の情景

田中希美(のぞみ)選手のこと。8月4日の準決勝の実況聴き逃したが(実況あったのかな?)、結果を見ると3分59秒19の5位で「決勝進出」!インタビューでの印象から、冷静なレース運びができたのだろうと思う。まぐれなどではなく、強い相手によって、やっと本当の実力が引き出され始めたのだと推測する。

8月2日の予選で自分の持つ日本記録を3秒近く更新し、1日置いた今日、さらに3秒縮めた。確かに、3秒縮めてもエチオピア、ディババの世界記録3分50秒07にはまだまだ及ばない。それでも4分を切るランナーは世界でも10人くらいで、54秒~59秒台にそれぞれ一人くらいずつしかいないのだから、健闘を期待していた陸上競技関係者の想像をも越えているのではないか。

今大会にはハッサンという“超人”がいる。1500m予選で他選手の転倒に巻き込まれ、ほぼビリから残り300mで全員をごぼう抜き、トップでゴールした「あの人」。ハッサンは5000mですでに金メダルを獲っている。耐久力もスピードもずば抜けている。

そういう超人たちが相手だから、田中選手の今回のメダルの可能性はほぼ無いだろう。だからこそ、ある意味ではいい勝負ができそうな気がする。ただ、決勝ではメダル候補たちはタイムより勝負に徹する傾向が強い。お互いを意識してスローペースになることもよくある。まあ、それならそれで、どんな対応ができるのか、新“超人”のレースが楽しみだ。決勝は明日8月6日。

遊びでも「金」、すべてを捧げても「金」

陸に上がったイカ釣り船

矛盾だらけのオリンピックももう後半。ここまでで強く感じたのは、新しい種目(特にスケートボード、サーフィン)は実に楽しそうで、ほとんど遊びの延長だということと、伝統的な種目はいかにも物々しく、あらゆるものを犠牲に捧げてもなおゴールが遠いということだった。「遊びの延長」はもちろんレベルが低いことを意味しない。心のありようの話です。

オリンピックに出場するレベルのアスリートになるまでには、幼いころからの本人の才能・努力だけでなく、家族ぐるみでのとてつもない犠牲が伴うとよく聞く。だから、いくつもの困難を乗り越え「栄光のゴール」へ向かう「試練物語」がつきものだ。それがわたしたちを感動させもするのだが、新しい種目の選手たち、特にスケートボードなどにはそんな物語は似合わなそうだ。あっけらかんと、楽しく友人たちと遊びながら練習しているいるうちに金メダルまで行っちゃった、そんな感じ。それが実に爽快で、スポーツの原点ってこうじゃないかな、と思わせられた。

日本の選手たちを見て特に強く感じるのは「悲壮感」だ。笑顔でさえも「笑顔!」とコーチに指導されている光景を見る。学校スポーツを見ればわかる。勝つことが大事で、そのために厳しい練習を強いる。強い学校ほど日常生活まで縛っていく。「勝ち癖をつける」ことで生徒たちも自分が向上したと感じ、厳しいスパルタにも耐えていけるようになる。でも、考えてみるとそれは一種の「洗脳」だと言えなくもない。日本中の学校でこんなことを何十年も続けているうちに、国民全体が「頑張り主義」に洗脳されてしまったのかもしれない。

スケートボーダーたちはたぶんそんな「部活」だったら、辞めているだろうと思う。好きだからやっているし、好きだから研究もする。強制されるのは嫌だ。ルールも自分たちが本当に楽しめるように、みんなで作っていけばいいじゃない。彼らの楽しそうな笑顔はそういっているように見える。スポーツの世界が遊びとくっついて、変わり始めるといいな。

金メダル

ある日の下北半島‐CGスケッチ

オリンピック、試合後の選手インタビューを聞いていると、どんな選手でも絶対に金メダルが欲しいんだな、と感じさせられる。

(現在の)自分の限界を越えて何かに到達するには、誰しも強い動機を必要とする。必要度が強いほど努力もするし、そのための我慢もできる。その極限のかたちをぶつけ合う最高の場が、たぶんオリンピックなのだ。「他人に勝つ」という歓びは本能的なものだろうが、それを増幅し続ける人生とはどんなものなのか、わたしには想像が及ばない。銀でも銅でもすごいことだと思うけれど、彼らにとって、金メダルとはそれらを何十個足しても替わりにはならないものなのだな、ということだけは分かったような気がする。

金メダル=1位なら、1位の称号でも同じことかといえば、きっとそうではないだろう。明らかな「物的証拠」として「金メダル」が欲しいのだ。金メダルを齧るポーズがちょっといやらしいと思っていたが、もっとも敏感な口回りの神経で金メダルに触る、その物質感が(精神衛生上)必要なのだろうと思いなおした。

気楽に見たり聞いたりするだけのわたしにとっては、頑張って自分が何かを得ればそれで十分ではないか、自己新記録を出すだけでも立派だ、などと思う。それが間違っているとは思わないが、そんな風に考えている選手は(少なくともオリンピック選手には)一人もいないということが分かった。