アフガン情勢から

木立ベゴニア

トランプ前アメリカ大統領が退任する前に、タリバーンとの間で撤退について合意していた。彼のあとを継いだバイデン現大統領が完全撤退を2021年9月11日までに完了すると発表してから、あっという間にタリバーンの大攻勢が始まり、ついに昨日15日、アフガンの大統領ガニ氏が国外に逃亡した。とうとうアフガンは再びタリバーンの元に戻り、2001年9月11日のアメリカ・同時多発テロをきっかけにアフガニスタンに戦争を仕掛けたアメリカの目論見は無になった、と報道されている。

わたしたちからはアフガニスタンは遠い。話題と言えば、故中村哲医師がアフガンの人々のために医療を提供するだけでなく、彼らの日々の暮らしのために灌漑用水路を作ることに身を捧げていたのに、2019年に反政府ゲリラによって射殺されたことくらいではなかっただろうか。けれど、世界があらゆる意味でつながっている以上、アフガンの情勢もわたしたちの生活と無縁であるはずはない。

アメリカが「悪の枢軸」と呼んでイラクを攻撃したのが2003年。フセイン政権を倒して(口実であった「大量破壊兵器」は発見されないまま)、そのあとをいわば「ほったらかしたまま」撤退したあとにIS(イスラミックステート)が、荒れ地の雑草のようにはびこり、人々を恐怖に追い込んだ(まだ終わってはいない)ことはまだ記憶に生々しい。2010から始まった、いわゆる「中東の春」以後も含め大量の難民が発生し、中東からヨーロッパにかけ、今もきわめて大きな問題になっている。難民の数で言えば第二次世界大戦より多いという。この時も「遠いところの悲惨な出来事」であり、わたしたちの生活には直接影響を受けないように見えた。

わたしにはこの鈍感さが一番の脅威だと思える。北朝鮮と韓国、中国と台湾。仮にここで難民が発生する事態になればわたしたちはどうするのか、考えておくべきことがそこにあるのではないだろうか。その時絵など描いている余裕があるとはとても思えない。コロナ対策一つとっても、政府を「後手後手だ」と非難するのはたやすい。けれど、そういう政府を作り上げてきたのは結局わたしたちである。わたしたちが考えないことを政府が考えてくれると思うのは間違いだと、この夏の「敗戦記念日」について、改めて考えた。

How to be a critical thinker

「Green apple and a book(unfinished)」  2021 tempera on canvas

表題は「どうやったら物事をよく考えられるような人になれるか」というような意味。critical は「批判的な」という意味があるが、日本的な、いわゆる反対するという気分より、「人の言葉を簡単には信用しない、鵜吞みにしない」「迎合せず、自分の頭で考える」というニュアンスの方が強いようだ。欧米では、子どもの時からこのことを訓練するらしい。

「自分の頭で考える」。そんなのあたりまえ、日本だってやっている、とは思う。けれど、自分の頭で考えたことを「人前で発表する」まではなかなかいかないのが現状ではあるまいか。発表すればリアクションがある。好意的なものばかりとは限らない。発表する側も批評する側もそこで考えが深まり、自分の頭で考えることの「中身」が深化することになる。だから、発表するということはとても大切なプロセスなのだ。

日本の学校ではなかなか「発表」ができない。あっても、ある程度決まった方向だけに偏り、賛成意見ばかりになりがちだとも聞く。そんななかであえて反対意見または疑問を述べるのはかなりの勇気がいる。先生も、反対意見を述べる子が孤立したりするのを恐れてか、適当なところでまとめてしまう。もう数歩進めるには先生の側にもそれなりの力量が要るのだろう。たとえばNHKの「徹底討論」が「徹底」といつも程遠いのは、おそらく似たような心理が働くからではないかと常々思っている。

相手を論破したり、説得できた方、つまり論争で勝った方が必ずしもが正論ということではないし、よい意見だということでもない。反対意見によって自分の見落としや考えの足りないところを考え直し、双方ともよりよい意見になることが良い討論であり、そういう謙虚な姿勢があれば、最終的に意見が一致する、しないに関わらず、それぞれより深い考えに発展する。

その意味で反対意見は貴重で、大切なものだ。けれど、当然ながら発表することがなければ反対意見など出るわけはない。こうした発表と討論の訓練を経ることで、発表する前によく考えるようになり、発表した後にもさらによく考えるようになる。日本では、選良中の選良であるはずの大臣ですら、このことがよく出来ていないのではないか、と思うことがけっして少なくないのが残念である。

オリンピック総括

Apple and Book

中学生の時に、テレビで見たメキシコオリンピックの陸上男子200mの表彰式で、1位と2位のアメリカの黒人選手が国旗掲揚場面で下を向き、黒い手袋をつけた右腕を突き上げ続けたシーンを今も鮮明に覚えている。今年(2021)読んだ、彼らへのインタビュー記事では、3位になったオランダの白人選手には表彰式前に相談し、賛同を得ての行動だったという。予想通り、このあと、彼らはオリンピックのアメリカチームから追放された。

「これが現実の世界なのか。オリンピックは約束された世界の一部に過ぎないんだ」と深くわたしの心に刻まれたシーンだった。以来、オリンピックだけでなく、世界を見るわたしの眼は変わった。1964年東京オリンピックでの女子バレーボールでの日本勝利に感動した菅首相が、自分と同じ感動をさせたいと、2021年コロナ禍下の日本国民に押しつけた「東京オリンピック2020」への視線とは180度違う眼に。

それにしても、日本選手のメダルラッシュが続いたせいか、日本のマスコミはすっかりオリンピック一色の報道になった。まるで太平洋戦争当時の「軍令部発表」(誤解のないように言っておくが、わたしは戦後の生まれである)の「軍艦マーチ」が嵐の「カイト」にすり替わっただけで、国威発揚の風景そのものは当時と大して変わらないように見える。

日本だけではないが、いい成績を出した選手が国旗をマントのように翻して報道陣の前に立つ。誇らしいと思う選手もいるだろうし、渋々という選手もいただろう。競技団体からの要請もあるのかもしれない。しかし、国旗を身にまとう行為自体に、「アスリート・ファースト」を掲げる主催者の言葉との矛盾をわたしは感じてしまうのである。