夢の中のペン

ポットと編み籠  (CGスケッチ)

夢の中で、小さな光るペンで何か描いていた。「これ、すごいペンだねー」とか驚きながら。

そのペンの中には既に立体があるのだった。VRのようなメガネは不要。そのペン自体が立体をなぞるのだ。数ミリ、数センチの凹凸に沿って、ペンを持つ手にその凹凸が直接感じられ、手がそれに誘導されるように前後左右する。すべすべやザラザラの材質感もそのまま。

たとえば、バナナの表面に絵を描くとする。ペン以外の何も手に持たず、なのに直接バナナの表面に描いている感覚、と言ったらいいだろうか。硬さ、弾力、重量感。夢の中では体験しなかったが、もちろん一周ぐるりと描けるに決まっている。

それでも、視覚的には一枚のキャンバスに描いているような気がした(夢の中では矛盾はつきものだ)。それは空間に浮いているようで、その立体感覚にもかかわらず、それ自体には厚みも質量もないような、しかも大半は目に見えないようなキラキラした、半透明?の「感覚」キャンバス。 もしかしたら、もうそんな製品ができていて、わたしが知らないだけなのかも…。

I’m happy, just now.

Apple-田園 (ほぼ終了)

ほぼ終了。筆を擱いたこの瞬間だけは解放感がある。これが夜なら一杯飲みたくなるところだが、今は昼だから同じ一杯でもコーヒーのほう。今日の夕方には冷めてきて、あそこがどう、ここをどう直そうかと考え始める。だからこの一瞬は貴重である。

描き始めてから、あしかけ1ヶ月くらい。わたしの場合、平均すると小品より大きな作品の方が早く仕上がるようだ。それはきっと事前の準備の有無による。小品は思いつきだけで描き始めることが多い(それはそれで良い点もある)が、たまにそれが途中で止まってしまうことがある。そうすると、永久に乾かないコールタールのように、何年もうじうじとまとわりつく(それも悪いとは言えないかも知れないが)。だから、とにかくいったんは終了まで最短距離で行きつく必要がある。そのうえでじっくり加筆するなり、あらたな作品にステップアップするのがいい。

ウクライナで戦争が起きている。そのさなかに、こんな大脳のしわが伸びきったような絵を描くなんて(しかも「田園」!)、同じ地球に棲み、同じ時代の空気を吸っているといえるのだろうか―もっと現代を象徴するような絵を描かなくちゃ―なんて焦ったりしていたが、それが現代なのだ、と最近は思う。
 家族を養うために他国へ人を殺しに行く傭兵がいる。いっぽうでその犠牲者を弔う仕事もある。爆弾や兵器を作る会社もあれば、その傷を治す薬を作る企業もある。いつでも学ぶ機会のある世界もあれば、一生教育に無縁な子どもたちもいる。それが世界なのだ。そしてそれらが深いところで、みんなつながっていることがやっと解ってきた。世の中に、他といっさい無関係なものなんて何一つないのだ。

自分ができることをやる。無理せず、でも誠実に。それがすでに難しいことなのだし。

コーヒーの朝

今朝も美味しいコーヒーができた

「コーヒー」が売れているのだそうだ―インスタントではなく、豆や粉が。コロナが世界を小さく閉じ込め始めてから。人々が外へ出かけなくなって、やっと自分の時間を取り戻し始めているということにもなるだろうか。

世界経済は停滞気味、かといえばそうでもないらしい。もちろん、これまでの働き方、ビジネスの仕方では大幅ダウンの企業、業種はあるだろうが、たとえばこのコーヒーのように、「個人」に関わる度合いの大きな業種ほど空前の利益をあげているようだ。先進国?の中では、日本以外では横ばいかむしろコロナを機に業態転換、経済構造の変革によって良い経済循環になっているとも聞く。

経済評論家でもないのにこんなこと書いても仕方ない。―コーヒーを淹れ始めるようになって1年近く、やっと「コーヒーの味」が判るようになってきた、ような気がする。それまではインスタントコーヒーのがぶ飲みで、それでも「まあ、コーヒーってこんな味だよ」と思っていたが、今からみるとそれらはまったく「経験智」にならなかったのだった。

お茶も同じことだろう。味の分かる人は美味しいお茶を飲み、こんなもんだと水代わりに飲む人にはそれなりにしか判らない。考えてみればコーヒーやお茶に限らず、すべてのことにそれは言えるのではないだろうか。一杯のコーヒーはわたしに平穏と静かな積極性を与えてくれるようになった。―ウクライナで戦う両国の兵士たち、逃げ惑う市民たち。一刻も早く、彼らにも深い一杯のコーヒーをゆっくり味わえる日が来ることを心から願う。