「品格」の使い方

「アンスリウム」  水彩

トランプ氏が第47代アメリカ大統領に就任した。一期措いて二度目の就任はアメリカ史上二人目(もう一人は第22代、24代のクリーブランド大統領)。昨年10月の大統領選挙でのハリス氏に対する勝利以来、バイデン現大統領からすでに政権が移行したかのように、彼の一言一句が注目を集めてきた。

就任演説の内容をサマリーで見た。就任の直後から、準備していた「大統領令」などに片っ端から署名。いかにもトランプ氏好みの演出だが、確かに何事にもへっぴり腰のバイデン氏にはできない芸当で、大して歳も変わらないのに、「全然違う」感をアピールするのには、願ってもないタイミングだった。狙撃事件といい、「運に恵まれた」大統領であることを、アメリカ人に対してだけでなく、世界中に印象づけることもできた。

トランプ氏の言動とそのタイミングには、世界中がオタオタしている感じだ。実際そんなことはないのだろうが、いわゆる “先進国” では政治家の大半はエリート層であり、経済的にも恵まれた階級の人々だ。自分たちと同質のエリートであるはずのトランプ氏が、まるでジャンキーのような言い方をすることに、“貴族階級” の人々が戸惑っている、そんな感じである。たとえ戸惑っても “貴族階級” である彼らは結局自分を応援するしかない。勝つためにはそれ以外の人達、つまり “それ以下” の人々の気持を掴むのが鍵だ、というのがトランプ氏の戦略なのだろう。
 「品格を一段落としてみせる」というラフな戦略。民主党はすでにエリート意識に乗っかっているためにその戦略をとることが出来なくなった。彼に対抗する多くの人々にもそれは解かっていただろうけれど、彼のように声高に “下品な言い方” をしてみせるだけの強さがなかったのだろう。

「品格を一段落とす」ことで大衆的に迎合する。この言い方では、大衆とは下品なものだ、と言っているようにも聞こえる。 “炎上商法” ではないが、大衆は往々にして反抗的、非道徳的、非常識的なものに惹かれる傾向がある、と言い換えよう。トランプ氏はそこを冷静に見極め、一見過激に表現する。冷静な商売人ならではの計算と根性?がある、ように見える。ただ、その戦略自体が少々古めかしい感じがするのは、彼の趣味にもよるのだろうが、たぶんそういうしたたかと過激さの両方をもつリーダー像そのものが、すでに過去形である、ということでもありそうだ。

日の温みが恋しい

「日差し」 水彩

AIが登場して、世界のビジネス環境はここ数年でさらに大きく変わると言われている。わたしは “世間” の端っこで、中心からかなり遠いところで生きているが、それでもその風を感じるくらいだから、社会のど真ん中で生活している多くの人々には(なかなか直接目に見えるかたちにはならなくても)相当大きな影響があるのは間違いない。

極端なことをいうと、「生きているのが嫌になる」という人が世界人口の三分の一とか、半分くらいになる、そんな世界になるような気がしている。

もちろん、企業やある人々(ビジネスと言ったけれど、一般の会社員と言うような意味ではなく、ほんの一握りの経営者かそれに近い人々、そのような人々)にとってはなくてはならないツールだろうし、便利、快適、環境、あらゆる意味で「神器」となるだろう。
 けれどほとんどの人にとっては、「便利になったなあ」とぬくぬくしているうちに、真綿で首を締められるように、ゆっくり?「不要なヒト」に分別されていく、そんな世界がとうとう来てしまったのではないか。個人だけでなく、企業、業種、国単位でも、そのような “淘汰” はもっとストレートに眼に見えてくるはずだ。どんなに「必死に」頑張っても、そんなことに何の価値もない厳しい世界。それが80億のヒトを抱える世界。
 パンドラの箱は開いてしまった、と前にもAIのことを書いたけれど、その状況はさらに加速していると感じる。幸も不幸も含めて、AI出現以前に戻ることはもうない。

日本人の平均寿命が80歳を超えたのはだいぶ前だ。だんだんそんな歳に近づき、そんな世界を目の当たりにする前にどうやら寿命を終えられそうなのは、幸せと思うべきなのかもしれない。まだ年賀状が机の上に乗っているうちなのに、そんなことを考えてしまう。

押絵羽子板

スケッチ中

実際の年賀状には使わなかったが、デザインだけしてみた。モチーフの押絵羽子板は、ひょんなことから人を介して頂いたもの。埼玉県春日部市の伝統文化の一つとして有名だ。製作者の名は知らないが、なるべく実物に似せて水彩で描いてみた。

描いてみて驚いたのは絵師のデッサン力である。製品自体は一点一点手描きしているとは思わないが、少なくとも最初の絵は構図・構成も含め、誰かが描いたものだろう。

押絵羽子板は布などを立体的に貼りつけて作ってあるものだが、顔や指などは一応平面上(厚みのあるスチレンボードのようなもの)に描いてある。それに陰影で立体感をつけてある。伝統的な意匠に沿いながら、意外に(と言っては失礼だが)繊細で鋭く、かつ的確。
 陰影のグラデーションも丁寧だ。手馴れていてもぞんざいではない。そんじょそこらの観光土産品のレベルとはさすがに格段の差。確かにこれは伝統文化であると同時に、一枚の絵なのだというプライドを感じた。描いてみる機会が得られてラッキーだった。

一枚の羽子板には、木を育てる人から数えれば、かなりの数の職人さんたちが関わっているにいるに違いない。その人たちが全員(家族も含め)生活していくには、羽子板が高価で飛ぶように売れていかなければならない、と思う。羽子板の需要という現実を考えれば、廃業(と聞いている)もやむを得ない選択かとも思うけれど、こんな小さな部分にも、職人のこだわりと実力が込められている。伝統文化にちょっとだけ触れた正月だった。