木も見て森も見る

3月7日22時30分アップロードしました

「木を見て森を見ず」という格言がある。瑣末なところにばかり注意を払わず、全体を見通す目を失わないようにしなさい、というほどの意味だが、意味は分かっても具体的にそれが木であるどころか、葉なのか枝なのか、はたまた一粒の花粉なのかさえ分からなくなるのが、たとえばパソコンで作業をしているとき。

パソコン上で一枚の写真を拡大、修整し、色を微妙に変える、その作業の中にもさらに細かな作業がある。文字を入れるにもどんなフォント(文字のデザイン)を使うか、文字と文字の間隔や行の空きをどうするか、文字に境界線を入れるか入れないか、文字の色をどうするかなど、ここにもさらに細かい作業がある。瑣末?な作業がどんどん増えていく。

 そのような枝から葉、葉から葉脈と分かれていく流れのなかで、翻って逆方向の木全体の方を向き、さらにその木の向こう、向こうへと続く森を見るというのは、かなり難しい。一方向でさえ自分の位置を見失いそうになるほど何層にも重なり、横にもいろんなアプリが並列する構造。しかもそれはまだ、解りやすい「作業」の例に限っての話。
「物事は上流から見よ」とも言われてきた。まさに樹形図のように森から木、木から枝葉へと見ていきなさい、ということだと解釈してきたが、学校教育はほぼ葉っぱから森を見る、それとは間逆の方向だろうと思う。

 いつ、どの時点で視点を逆転させる教育が行われるのだろうか。今の日本で言えば、大学の卒業研究または大学院レベルで、やっとそういう見方を訓練するのではないだろうか。それ以外はすべて「個人の勉強」に委ねられてきたような気がする。それも受験勉強ではなく、一つのものごとに対する深い興味と、時間に縛られない自由な勉強といい仲間のいる環境があれば。「木も見て森も見る」ために必要な環境は、ますます遠くに離れていくように感じる日々。

マッチ・ポンプ(自作自演)

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「マッチポンプ」はかなり昔に死語化した語だと思っていたが、近年「ステルス(見えない)マーケティング」(有名人に番組などで商品を使ってもらい、それとは知らせずに宣伝すること)という経済用語?の登場に引っ張られるかたちで、ときどき再出演する語になっているらしい。

マッチポンプは、ふつう悪い意味にしか使われない。自分がマッチで火事を起こしておいて、真っ先に現場に駆け付け、ポンプで水をかける。それで消火の栄誉を得ようとする、という意味だから当然だ。実際にそういう例は意外に多く、そこから国際政治の喩えにも使われたようだ。「プーチンの戦争」もそう見えている。

最近のことを考えてみると、マッチポンプだらけと言っていいような状況に見える。「火付け役」が「起業(家)」、「陰謀」が「共有」「メディア」が「煽り役」と役どころの名前を変えると、そんな風に見えてくる。ただ、それが複数であり、演者も自覚なしに演じてしまっていたりと、“ステルス”化している。一方で、YouTube動画や tiktok、インスタグラム等、こちらは皆自作自演である。マッチポンプとは言われないが、良い意味?でそれが普通になり始めている。

しかし、こちらの「自作自演」は基本文字通りのフリーランスであり、メディアに乗れば歓迎される一方で、現実の負担はかなり厳しいものがある。tokyo2020で金メダリストになったスケートボードの選手たちの、そこへ至るまでの道のりの厳しさはすでにある程度知られているだろう。けれど、彼らの前にその道へ一歩踏み出した人がいることを忘れてはならない。道をたどり、道を広げるのももちろん大変だが、最初の一歩もそれに劣らない、と思う。マッチの火をつけることがいかに大変か。ポンプまでいけば、なかば成功したも同然だと思う。

コンピューターはウソをつく

コンピューターによる切り抜き

むかし「インディアン嘘つかない」という、お菓子か何かのコマーシャルがあったのを覚えている。それが「○○噓つかない」と、今でいう流行語になったような記憶もある。

「コンピューター噓つかない」は流行語ではなく、常識「だった」。コンピューターは間違わない。「コンピューターの間違いにより」というお詫びの文言は、「(人間の)入力ミスにより」だと技術者たちから必ず不平が出たものだった。能力の多寡はあれど、コンピューターの正確さと早さには絶対の信頼が「あった」。

「だった」「あった」と過去形になったのは、コンピューターが嘘を平気で吐けるようになったから。少し前「チャットGPT」について書いた。その能力の高さを、今度は「嘘をつく」ことであらためて証明して見せたらしい(ニュースの文脈では、そのことを能力がまだ低いことの例として紹介していたが)。(人に合わせて?)「適当にごまかす能力」と言い換えてもよい。あるいは、コンピューターが自らデータを「意図的に選択したり、隠したり」という能力を身につけつつある、と言い換えたらどうだろう。

いかに博識の人でも、人間の知識には限界や偏りがあるのが普通。質問するのは当然自分のよく知らないことだから、適当な知識を織り交ぜて、納得いくような説明をされれば、それが嘘か事実かを見抜くのは簡単なことではない。しかも、誤りを指摘されると「手抜き?」を謝るというのだから恐ろしい。人工知能の研究は全世界的に猛スピードで開発競争がなされているようだが、開けてはならない「パンドラの箱」をすでに開けてしまったのかもしれない。コンピューターが人間を排除する、SFの世界が現実のものになった、これが最初の証拠でなければいいのだが。