手 Hands

8/12(土)アップロードしました

毎日手を使って生活しているのが当たり前で、わたしだけでなくほとんどの人が「いま手を使っているぞ」などとは意識しないでしょう。意識するのは怪我や病気などで一時的に使えなくなるときくらい。あるいは楽器演奏などで、譜面通りに指動かすことができないもどかしさ、工作などであと一本指があれば!とか思うときくらいでしょう。

手は、便利というよりかけがえのないもので、これが人間を他の動物と隔てる壁になっているようです。手が「手」になっているのは人間と「類人猿」だけです。けれど、それ以外の動物もきっと「『手』が欲しい」とは思ってもいないし、それで満足しているはずです。人間だけが手の便利さを知っているから、手が失われたとき、それを補うための道具を考え、そして何より「作れる」のです。さすがに「類人猿」でもそれはできません。

それが「文化」「文明」の力なのでしょう。思想や技術の蓄積、つまりは歴史。人間だけが「歴史」を持っていると言えば、一瞬、そんなことはないと感じるかもしれません。でも、どんな恐竜がどの時代に生きていたかを、人間が作った物差しの中で照らしてみることができるのは人間だけだ、と理解すれば意味は伝わるでしょう。恐竜の骨はたんに「物」であるだけで、それ自体は「歴史」ではないからです。恐竜学者が新しい骨の発掘にワクワクするのは、人類の「新しい歴史」を自分が創っているからです。

もしもわたしたちに手がなければ、すべては「お手上げ」状態で、食事さえままなりません。うまく鳥を捕まえたとしても、ワニのように丸呑みするか、脚で抑えて口で翅をむしり、何より「生きたまま」食べなければなりません。あるいは屍肉か。ほとんどの野生動物がそうしているように。あるいは植物の実や葉を求めて季節ごとに移動しなければ餓死してしまいます(しかも歩いて)。魚など食べることはほぼ一生できないでしょう。そして、歴史を持たないまま絶滅します。
 最近、手の指がだんだん曲がったままこわばるようになり、ことさら手のことを考えるようになりました。

情報

「ワイン瓶とパン」水彩  ―ここは井戸のど真ん中だ―

関東地方は、今日は東京・大手町と埼玉県熊谷市以外は猛暑日ではなかったようですが、今日もほぼそれに近い気温でした。それでも立秋を過ぎたという気持のせいか、なんとなく夜の気温が過ごしやすくなった(ような)気がします(最低気温24℃なんですけど)。こういう気象情報は、すべての事象に目に見えて関係するので、誰にとっても価値のある情報だといえるでしょう(こじつけ感ありありですね(>_<))。

情報がない、というのも一つの情報であるように、すべての物は情報化します。ただし一般論として。それは誰かにとっては(きっと)意味があるに違いない、というほどの意味です。逆に言えば「自分にとって価値の無いものは情報ではない」ということの裏返しだとも言えるでしょう。
 漁師や釣り人にとって、潮のあるなしは大きな情報ですが、農家の人にとってはほぼ無価値でしょうし、マスクをしなくなって、口紅が急に売れ出したとかは女性にとって興味ある情報でも、おじさん、おじいさんにとっては“意外にも” ということはあまりなさそうだ、という風に。

知らなければ知らないままで済んだのに、知ったばかりに大きな負担になる情報もあれば、知ることで大きなアドバンテージになる情報もあるでしょう。戦争(競争でも)では相手が欲しそうな情報を、魚釣りの針のように相手に投げ与えるフェイク情報もばらまかれて、油断ができません。情報を嗅ぎ分けるための情報も、それを知るための情報も、情報の山の中から選びださなくてはなりません。アナログな忍耐力もきっと必要な能力です。

「井の中の蛙」という言葉は、自分にだんだんよく当てはまるようになってきた、と感じます。知らなければ知らないままでも不都合を感じなくなってきた、という意味です。無風の「井の中」がだんだん居心地良くなってきたのです。井戸から出て、自分に必要な情報をさえ集めるのがだんだん億劫になってきています。自然に落ちてくる情報だけで満足できるようになってきたのですね。そう遠くないうちに、(幸福なことに)いつしかそこが天国だと信じたまま、土に埋もれていくのだろうと思います。

大本営発表

08/04にアップロードしました。ご覧ください

「マイナーな気分になる情報は出来るだけ少なく、アップする情報は可能な限りオーバーに」という情報発信の仕方を「大本営発表」と、太平洋戦争での日本軍の報道への皮肉を込めて呼ぶようです。ウクライナ戦争でのロシア政府、軍関係からの様々な報道を、日本はじめいわゆる西側の人々はそう呼んで嘲笑っているようです。

けれど、これは当時の日本軍だけでなく、世界中どこの国でも、今でもやっています(おそらくこれからも)。スポーツの世界でも政治の世界でも、およそ「対立」のあるところなら、時に応じてリップサービスや中傷にかたち変えたりしながら、あらゆる場所、次元で起こることがむしろ普通だと考えておくことが必要だと思います。

わたしたちも、気分が良くない時はできるだけ嫌なことは聞きたくないものです。たとえそれが事実であるとしても悪いことが3つも4つも重なることは避けたいし、気分転換のために耳障りの良いニュースだけ選択したり、あえて笑いの要素を探したりします。それが自然な気持であり、逆に言えばそこに付け込まれる“油断” が生まれます。それが「大本営発表」の本質です。

YouTubeを作っていても、作る労力と実際の視聴数とはまったく比例しません。そして、人にそのことを伝えるときはうまくいった時より、失敗の話の方をつい選びがちです。その方が聞く方が上位にあるという心理が働いて、気分よく聞き流せると思うからですが、これもちいさな“逆” 「大本営発表」の類でしょう。大事なニュースなのに知らされなかったり、重いからと、ニュースそのものに耳を塞いでくれたほうが都合いい人たちも居ないわけではありません。程度問題ですが、どんな情報にも「大本営発表かも」のチェックマークをつけておく必要があると、「終戦の日」が近づく今日、考えています。明日は広島原爆の日。