やはり船はいい

南極観測船「宗谷」ブリッジから(お台場・船の科学館)

久しぶりに少しだけ海を見た気がする。半月ほど前に下北へ行った時も海岸線を車で走り、海は毎日見ていたのだが全然そんな気がしなかった。父のクモ膜下のことでそんな余裕も無かった。いくらか自分の気持ちも落ち着いてきたのでスケッチに行くことにした。

場所は今後のスケッチ会の下見も兼ねて東京に決めていた。船の科学館が今月一杯で再開未定の休館になるというのでこれをメインに、時間的に可能ならばスケッチするというつもりで出かけた。

写真はそこに係留、一般公開されている南極観測船「宗谷」のブリッジからの眺め。正面に向き合っているのは水産庁の船(東光丸)。その奥に広がるのは東京港への水路だろう。対岸にはコンテナとコンテナ船がびっしり。荷役用のリフトがニョキニョキ立っている。こんな風景は宗谷にはふさわしくないだろうが仕方ない。おかげで子どもの頃に本で見た記憶のある(テレビの映像の記憶かもしれない)船を実際に見ることができたのだから。

しかし、記録を見ると宗谷はもともと旧ソ連に貨物船として発注されたもので、国際情勢の変化で民間の小型貨物船「地領丸」として1938年に就航した船だから、むしろ本来あるべき風景の中に戻ったと言うべきかもしれない。

地領丸はその後すぐに海軍特務艦になり「宗谷」と改名。測量、輸送の任務に就く。戦後は引揚げ船、海上保安庁の燈台補給船として使われた後、1956年に南極観測船に転用された。その時点でも既にかなりのボロ船だ。そのいきさつも面白いが、このたかだか2700トン程度の(本当に)ちっぽけなボロ船を実際に見ると、これを初体験の国際南極観測船として送り出した、このニッポンという国のおかしみと哀しみを感じざるを得ない。戦後間もないとはいえ、ほとんど特攻隊そのままではないか。一方で、隊員たちの弾けるような好奇心と若さがそれを乗り越えたことに、今も大きな共感を感じることができる。

南極観測は極寒の銀世界のイメージしか私たちには浮かばないが、実は途中で赤道を通り過ぎるわけで、その猛暑対策が大変だったらしい。初めにソ連の氷洋貨物船として建造された経緯からも、暑さに対しては全く考慮されていない船だったことが分かる。そこに同乗させられたソリ引き用の、毛むくじゃらのカラフト犬など、よく死なさずに南極まで連れて行けたものだと思う。タロ、ジロの本当の苦しさは、実は南極よりインド洋にあったのではないかと想像した。

船は形も美しいが、その歴史にも何とも言えない深い(人間的な)味わいがある。沈んだり、解体された後まで人が船に引き付けられるのは、そこに小説のような魅力があるからかもしれない。

防災グッズ

パンジー F6 アクリル 2011

防災ブームにあおられて、我が家でも水を2ケース買った。2㍑×6本×2ケース=12本=24㍑。妻が買うと言うから車で運んだ。水は1人1日4㍑で計算する。最低3日、出来れば2週間を備蓄すべきだという説に従うと、我が家は3人だから3人×4㍑×3日=36㍑が最少限。それに満たない中途半端な量の根拠は「だってお金かかるし」「場所も取るし」。確かにいざとなれば無いよりマシだが、2ケースの根拠が極めて貧弱。

私の知らないうちに彼女はライトも何種類か買っていた。そのうち電池の要らない手回しライトは試用中に壊れたし、ごく普通の手提げライトは何度か押しているうちにスイッチが戻らなくなった。数日前、電器店に行ったら私が現在愛用しているものと全く同じ型のLED小型ライトが山積みになっていた。全く同じ物なので、それらが不良品であることはすぐ分かったが、値段は逆に倍近く高くなっている。お店でもそれが不良品であるとは分からないのかも知れない。一応点灯するし、明るさもある。LEDライトの色が分離しているので不良品と分かるのだが、使ったことのない人にはおそらく分からないだろう。スイッチも異常に固いが無理に使えないことはない。しかし、ちゃんとしたものはラクラク使えるのだ。これはメーカーの良心の問題だが、どさくさの防災グッズ市場には、このような本来なら廃棄されるべき製品でさえ、ある程度出回っているに違いない。防災をグッズで安心したい心理につけこんでいるわけだ。

「ナショナル・ジオグラフィック」という米国発の雑誌がある。これは世界中の地理、風土から、生物学(生態学)、時には社会問題、宇宙・天文までおよそ人間と世界・地球に関わることすべてがテーマになっている。一本の記事は短いがどれも内容は深い。パソコンから資料をとって、机の上で作り上げるマスコミ論文の類ではなく、著者が実際に現地を歩く、写真とフィールドワークに徹した雑誌である。レポーターはほぼ全員それぞれの分野で活躍中の現役の学者やカメラマンで、この雑誌の為に何人ものカメラマンが命を落としているほどの、写真の迫力は別格だ。地球と人間社会への、本物の「探検の本」である。

その中で今年8月29日(1週間前)に発行された「世界のどこでも生き残る 完全サバイバル術」(2400円)を読んでいる。探検の準備・知識と防災への意識・備えは共通するものが多い。我が家のような、ヘボい防災グッズを買う前に一読したら、「防災」そのものの意識が変わるだろう、というより、より核心的な考え方のヒントを得られるだろう。震災をダシにむざむざいい加減なものを買わされるよりは、こちらの方がより優れた防災グッズだったのではないかと思う。2011/9/4

私の中のジャングル

シェルターの男 ミクストメディア F4 2011

民主党の野田政権が発足。ホオーッ!という感じだったが、まあそれなりかなと思う。その中で細野剛志原発担当大臣が再任。「この仕事をやりたい人は誰もいない。(私も)なにが何でもやりたいという気持ちは微塵も持っていない」。何ですか、この発言は?誰もやりたい人がいないから仕方なく(嫌々)やるという意味でしょうね?もしもポストに汲々としているわけではないと言いたいのだとしたら、あまりにも言葉足らずだ。京都大学の法学部出身で、現三菱UFJ総合研究所のリサーチ&コンサルティングの研究員をスタートとするキャリアにしては、中学生レベルの政治感覚しかない発言だなと思う。新内閣の閣僚インタビューという場の認識があるのだろうか?思えばこの国の政治家の、自分の言葉に対する政治感覚の欠如ぶりには呆れるというより恐怖を感じる。こういう連中が海外で何を喋っているかと思うと恐ろしいが、幸い?にして大多数はほとんど英語が出来ないらしいから安心?

政治など庶民の生活には関係ないやと目先のことにかまけた結果、私たちが生み出した政治貴族たち。彼らもまた庶民なんか関係ないや、と思っているのだろう。おあいこだとしたら、あまりにも哀しい現実だ。リビアやシリアでは若い人たちが命をかけて新しい政治、自分たちの政治を作ろうと戦っている。勝っても厳しい前途だが、その息吹はまるで幕末の志士達にどこか通じるようだ。世界はまだまだ若いのだ(逆にいえば日本はもう老いくたびれてしまったのだ)と、彼らの貧しさの中にもある種の羨ましささえ感じさせられる。

話題は180度近く変わる。ここ数年、得体の知れない怪物ともつかぬ、巨人のような 「男」と題する作品を発表し続けている。いつだったかギャラリートークで、その巨人の解説をした。毎年同じ話をするのもつまらないのでその後は内容を換えて話しているのだが、その時の解説で言わなかったことが(実は言いたくても言えなかったのだが)、ずっと私の中で反芻を繰り返している。「どうしてこういう絵を描くようになるのだろう?」ということだ。

それは表現の意図とか、内容とかいうものとは全然違う。ここ数年続けていると書いたが、さらに事実を言えば小学生の頃から既に今のような絵は時々だが描いていた。数年から十数年の間隔を措いて私の中に現れる、グロテスクと人に言われる絵。そのことが何を意味するのか私にもまだ分からない。だから人にも説明しようもない。自分の中の未知の部分を知りたい、あるいは未開の部分に入り込むのを畏れるような、そんな気持ちをずっと持ち続けている。  2011/9/2