ゴミの行方

下北のホッチャレ鮭 水彩 2012

ホッチャレとは「捨ててしまえ」という意味だろう。放っちゃえ、という音に似ていると勝手に考えている。産卵後の鮭のことだ。

産卵は、鮭にとって死と引き換えの大事業だ。産卵の成功は自分にとって確実な死をもたらすというジレンマを、鮭は一顧だにしない。凄いことだが、それ以前に物理的なエネルギーの消耗度も、私の想像力などとても及ばないレベルであるに違いない。

産卵するといわゆるサーモンピンクの肉色は急激に白っぽくなり、肉も脂気の無いパサパサになる。魚特有のぬるぬるした皮膚も一気にぬめりが無くなってしまう。人も大きなショックを受けると一夜にして髪の毛が真っ白になることがあると聞いた記憶があるが、それに近い状態なのだろうか?しかもすべての鮭が確実にそうなるのだ。もちろんそんな鮭などもう誰も食べはしない(一度だけ安い鮭を車で売りに来た業者がいた。近所の人が安いというのを聞いて、私はピンときた。あとで見せてもらったら案の定、知らない人をごまかせる程度のホッチャレだった)。それを食べるのは川のカニや水生昆虫の類。そうやって鮭の体はリサイクルされていくため、大量の鮭が死んでも、それで川が汚染されるということはない。つまり鮭の死体はゴミではないのだ。

昨日・今日と、父が何度か危険な状態に陥ったらしい。今日もいよいよかと思わせる電話が何度か弟から入った。夕方になって一応安定したようだが、予断を許さない。

しかし、兄の私は暢気なもので、今日も大学からの引っ越し準備に追われていた。今日現在で大学にはほぼ600枚の私の作品が片付けのために集められている。水彩やスケッチの類を含めたら膨大な点数になる。頭痛のする量だが、それでもこれまで引越しのたびにかなりの量の作品を処分した残りである。けれど、現存作品を見て、更に残すに値するかどうかは、はなはだ心もとない。もしかすると、これらは既にゴミなのかも知れない。

「人は死ねばゴミになる」という本があった。灰ではなく、ゴミと言うのであるから衝撃的なタイトルだ(読んだ記憶はあるが、中身は全く覚えていない)が、このあたりになると「ゴミ」の定義がそろそろ問題になってくる。

父が亡くなっても、それをゴミだとは、私は思わない。でも、鮭のようにリサイクルされずに、燃料コストをかけて焼却するという点だけに注目すれば、ゴミのように熱エネルギーさえ利用できないヒトの死体はゴミ以下である、という言い方もできよう。ましてや、残す価値さえない絵を作り出す私は、更にそれ以下の存在かも知れない。

ヒトは自分たちが動物の中では最上位だと、近年(人類史的に見て)とみに驕り始めているように感じる。ヒト以外の動物は殆どゴミを出さないから、結果的に最上位はゴミを出す量で決まったかにも見える。人間は生きて行くうえで絶えずゴミを作り出さずにはおかない、いわば地球の天邪鬼(あまのじゃく)なのである。

鮭の死は清々しい。ヒトの死、人間の死も、かくありたいと思う、ホッチャレの姿だった。   2012/2/19 日曜日

大湊(おおみなと)

海上自衛隊大湊基地2012正月

父の介護に通った病院から車で2分、海上自衛隊大湊総監部(60数年前の旧日本海軍大湊基地。太平洋戦争の幕開け、真珠湾攻撃への連合艦隊はここに集結したらしい)がある。現在は海上自衛隊の大湊・北海道方面司令部になっている。1月3日の夕方、久しぶりに穏やかな冬の日、病院の帰りに寄ってみた時の写真だ。

小学生の頃、海洋少年団というのがあった。やせっぽちでひよわだった私は「海の男」の強いイメージに魅かれて入団を熱望した。手旗信号などはすぐに覚えた(なぜか今でも覚えている)。白い将校服に憧れたのが今では夢のようだが、艦を見ると、今でもなんだかドキドキする。

私は戦争を知らない世代だ。でも子供の頃の親の話といえば戦争に関わった話が多かったように思う。戦後20年も経っていない時点では、まだ記憶も生々しかったに違いない。

国のため、親のため。そうやって自分自身を見つめることのできなかった祖父・親を見ていた。そんなこと真っ平御免、俺は俺流で生きるよ、と両親の心配を鼻で笑い飛ばしてきた自分が、いざ自分の子供に対してみると、なんだ俺もかと愕然とする。

基地のラッパが鳴った。ラッパのそれぞれの意味はもう忘れてしまった。   2012/1/16

 

 

 

雪について思い出すこと

 

冬の下北(Simokita in winter)2012

下北の、いや下北に限らず雪の風景は美しい。モノクロームの世界とよく謂われるので、ついそんな風に思いがちだが、自分の体験をちょっと振り返れば、決してそうではないことを誰でも思い出すだろう。

先日、この雪の風景に触れ、なんだか忘れ物を取りに帰ったような気がすると書いた。たしかにそうなのだ。中学生自分にはほとんど勉強などせず、ウサギやヤマドリなどの罠かけに夢中になったり、その途中、スキーで危うく2度も遭難しかけたりしたことを、今回の帰省中毎晩のように弟や母と思い出しては話したものだった。それらは自分の体のどこかに沁み込んでいて、こんな雪を見ると自然に気持ちが昂ぶってくるのをくるのを感じていた。父のことがなければ、2、3日はウサギ罠でもかけに出かけたかもしれない。もっとも、それがなければ帰りさえしなかったに違いないが。

本格的に絵を描くようになったはじめの頃、いろんな色を使いこなしたあと、やはり最後はモノクロームだなあと何度も思ったのは、こんな風景を見てきたからだろう。いつの間にか生活に追われ、そういうことさえ忘れてしまっていた。私のことを「幻想作家」だと言った人がいる。それは恐らく当たっている。ごく小さな子供のころからなぜか自分でも そんな風に感じていたからだ。雪は幻想を育む。雪国は幸いである。