「傲慢」の視線 / Arrogant view

ヒトはオランウータンより賢いか、オウムより賢いか。私たちは普段意識せずに動物たちを見下している。私たちはオウムに言葉を教え、彼らがそれを覚えるのを見て満足感を覚える。けれど、オウムが私たちに教えていること、オランウータンが私たちに教えてくれることを受けとめ、オウムやオランウータンが満足できるように私たちはできるだろうか。

おそらく、「世界」と私たちが思っていることもそうなのかもしれない。ヒト対ヒト以外の動物(もしかして植物も)だけでなく、人間という範疇のなかでさえ、人種や地域、地位、経済力の有る無しに置き換えてみると、似たような視線がありそうに思う。

それを「人間の傲慢さ」と指弾することもまた、私たちの誰もがすることだが、だからといって決して謙虚になるわけでも、一歩進んで更に理解を深めようとするわけでもない。要するに口だけなのだ。本当はそれが「傲慢」の本質ではないかと思うのだが。

さて、芸術をこれにあてはめてみるとどうなるか、興味あるところである。

展覧会で思うこと

11月6日から、銀座8丁目ギャラリー「風」でグループ展をしている。写真は出品作。他に小品2点。

展覧会をしたり、人の展覧会に行っていつも思うのは「この展覧会に、果たしてどんな意味があるのだろう」ということだ。作家個々がそのことをあまり深く考えていないことに、毎回呆然とする。やりさえすれば、描いてさえいれば作家だと思う人、或いは宣伝と割り切っている人もいる。

作品自体についてはよく考え、それなりに努力していることは分かる。でも、表現技術に終始し、表現という大きなものの中で、自分のありよう、表現のもう少し深い意味と広がりについては、どこかの本を読んだ程度の上っ面だけしか考えていないように見える。そんなこと考えていたら制作できないよ、という声が聞こえるが。

細胞トレ / Cell training

絵を描くということは、私たちがふつう考えているよりずっと身体運動なのかも知れない。ヒトは立っているだけで全身の200以上の筋肉のバランスを取っているらしい。

絵を描くのだから、筋肉だけでなく目、脳も使う。脳を使うということは脳細胞を活性化するということだから、その分血液も多く流す必要がある。心臓にも自然そういう指令がとこからか出ているだろうし、血流量を差配する交通整理のような役目も身体のどこかでやってくれているに違いない。

エキサイトして鼻の穴も少しは広がっているかもしれない。足は手を自由にさせるために、かえって普段より踏ん張っているかもしれない。耳は?あまり働かないよう、縮こまっているのかも。一区切りつくまで腸も空腹を訴えるのを我慢していたり。その分肝臓が栄養分を配給…etc。全身運動という他ない。見る方にもほぼ同じことが言えるはず。筋トレというより、細胞トレーニングではないか。