暑い日が続きます

枇杷(部分) 水彩 F6 2011

暑い日が続いている。今日も暑いと、ラジオが言っている。なでしこジャパンはどうなったか。午前5時14分の時点では3対1でリードしていたが、勝敗はまだこの時間では分からない。・・オールJapanだの日本チャチャチャなど、一体性を強調されるのは嫌い(怖い)だが、なでしこJapanなどつい気にかけたりするのは何故だろうと自分でも疑問。

たった今、なでしこJapan、3-1で勝利とラジオで。なぜかホッとする。

昨日、埼玉県立近代美術館で埼玉二紀展を見た。絵画では多くは100号以上の大作を数点ずつ並べている。この暑い中頑張っていると思う反面、若い人たちの絵は個性的アイデアを競い、体力、気力を膨大に消費しながら描いているのに、できた絵はほとんどどこかで見た絵の、下手なコピーに見えてしまうのが気の毒だ。やがてこの中から、ひょっこりスターが現れてくるかも知れないとは思いつつ。(口が悪く、申し訳ありません)。

銀座でグループ展を開いている。若い人もポツポツ来る。ほとんどが絵を描いている人たち。現役画学生(既に死語だが)や新人社会人で絵との両立で悩んでいる人たちが、初対面の私に率直にそんなことを問うてくるのに少し驚く。彼らから見て、自分はそんな年なんだとあらためて思うと同時に、今の人たちは素直だなあと羨ましくも感じた。分かったようなことを書いたが、やってること、苦しむことは彼らと何も変わらない。暑い日が続くが、だらだらとでも、涼しくなるまで制作を続けていく。

 

猫になりたい

ヌード(部分) 水彩 2011

苦しみながら絵を描く、と言うとなんだか努力家のようだ。が、友人によると最近の脳科学では、それでは良い作品は生み出しにくいと教えているようだ。努力は悪である、とまではいかないが、努力よりも「気持ちいいことをする」方がはるかに本質的であるらしい。

実感である。私は相当の長期に亘って作品制作に苦しみ続けてきた。それが悪循環になることも経験し続けている。気楽に描けばいいことは本能的に感じるが、何かがそれを止めている。何か、とは「意識」である。さまざまな、過剰な意識が、気楽に、気持よく描くことを妨げている。

気持ちいいこととは、肉体にも感情にも素直になるということ、素直に快感に近づくということだろう。言いかえれば「ちょっと動物になる」ということではないか。

寒いときは温かい日向で、暑いときはひんやりしたコンクリートの上でゴロゴロ寝そべっている猫、要するにあれになればいいのである。体のことや、気候のことなど意識しなくても体自体、相互にバランスを取り合い、敏感に反応して動物(人間も)は生きている。いや、ことさらに意識しないからこそ、感覚が鋭敏に反応できるのだそうだ。

なぜ人間は無駄な「意識」をするのか。それは人間の意識が弁解(言葉が不正確かもしれない)で出来ているからなのだそうだ。行為の後付けの「弁解」が自分と周囲を納得させるように働くからだという。確かに猫は弁解しない(他の動物も)。失敗の言い訳をしている猫を見たことがない。せっかくの節電の夏だ。暑いときは動物になって日陰でゴロゴロしていよう。言い訳などせずに。天才たちの閃きも、夏休みのゴロゴロ期間に多く生まれていると聞けばなおさらだ。彼らはその期間には上手に「猫」になる術を知っていたに違いない。

リズムについて

風景 F4 水彩 2011

最近出かけることが少なくなったから、相対的に制作時間が増えてきた。これは歓迎すべきことである。画家には制作のリズムが欠かせない。それを忙しさの中にも維持しなければならないが、いつの間にかみずからそれを壊してしまっていたことが、あらためて見えてきた。制作時間が増えれば自然に自分のリズムを取り戻すことができる。

誰だったか忘れたが、人間とは過去の塊だ、という意味のことを言った人がいる。過去とはあらゆる可能性の廃棄処分場であり、今とは単に偶然とか運命としか呼びようのない「可能性の幻」だ。それでは考えたり、努力することは無駄なのか?― 実はそうなのである。動物は決して努力などしない。努力とは人間を動物から分け、自らが人間を含む他の動物から搾取する存在になるために考え出した政治的な嘘の美名でもある。ところが体のリズムはその嘘を簡単に突き破り、私たちもまた動物そのものである事実を否応なく突きつけてくる。

それは自分に嘘をつかず、過剰な欲望を持たず、真摯なる「無目的(無自覚という意味)」に生きるという、動物のごく普通の姿である。もっとも、これではあまりに素朴な人間・動物観だと言われるかも知れないが、どうも原点はその辺りにあることを忘れ過ぎているような気がしてならない。  2011/7/3