風景画の試み

「風景」習作

今年は「風景画家」になる。それが目標と、とりあえず宣言しておこう。
あっ、その前に「あけましておめでとうございます。今年もよろしく」です。

毎年何度かチャレンジするが、いつも中途半端で挫折。風景が問題なのではなく、考え方がちゃらんぽらんだから。そして、なんの反省もなく、同じことを繰り返す。繰り返すほど失敗データだけが積み重なり、頭は失敗のカスだらけになる。

「風景画家」はともかく、私だけでなく現代のどの画家にとっても風景画は難しい。それは写真の視覚と戦わなければならないから。写真の機構、機能的レベルはすでに人間を遥かに超えている。しかもそれが誰の手にもあり、そのレベルに慣れっこになっている。どうやってそれと戦うのか?その戦略なしに、迂闊に風景画など描けないから。

もちろん、私たちの頭はまだ19世紀にあるから、通常は普通の風景を上手に描いていれば、(むしろその方が)十分に楽しい。

そいつは誰だ?俺の中にいるのは

「ある男」習作

「ある男」は飛んだり、跳んだり、浮かんでみたり、沈んでみたり。時には指を組んでみたり、自らか人によってかシェルターに入ったりする。そして時々叫び、タツマキを起こす。死んでは新生を繰り返す。こいつはいったい誰なのか。

答えがあるとは限らないのに

「ある男」習作

暮だ。年末だというのに、ほとんど家庭と自分の用事を済ませられない。なんだか、絵がもどかしくて。そう簡単には一歩なんて進めないと思っていても、もう少しでそいつの背中くらいは見えそうだと感じて、やめることができない。

課題は分かっているが、解決法が見つからない。頭を整理し、その上でいろいろやってみる。決して当てずっぽうではなく、それなりの目算もあるつもりで始めてみるが、ことごとくはね返される。まあ、数学の問題のように一つの式できれいに解けるというようなものではなく、経験と分析が物を言う世界だし。

だが、そもそも答えがある、という前提などない。あるとしても答え(のかたち)がひとつとも限らない。青い薔薇を野に求めてもむだなように、あり得ない答えを求めれば単なる放浪以外にない。それを追い求めきれるのは天才かバカか。天才である確率0.1%以下であることはほぼ間違いない。すると、今やっていることは、ドン・キホーテ。