Apple 3

「Apple」 F4 tempera-oil 2019 (unfinished)

人が見たら、取り憑かれたように「Apple」を描き続けているように見えるかもしれない。確かにここ3ヶ月ほど集中的に描き続けてはいるが、取り憑かれているわけではない。この集中は制作上のいろんなケースを想定しながらの、いわばケース・スタディというか、思考の洗練度アップのための期間だと考えれば解りやすい。

若い頃はこんな描き方はしなかった。思いつくまま描けば、それがベストだった。次々と溢れてくるアイデアに制作が追いつかなかった。今もアイデアは浮かんでくるが、なんだか昔の焼きなましのような感じもする。一巡も二巡もしてしまったのかも知れない。ならば、逆にじっくり一つのアイデアを深くしてみよう、深くできないときは(職人的だが)完成度を高めるとか、そんなふうに考えている。

最近、絵というものは一枚で完成するものではなく、結局一生描き続けた全ての絵のトータルとして、一枚(?)が終わる(決して完成とか、その人の世界などと簡単にいうことはできないが)ようにも思えてきた。大きな木の、葉っぱ一枚一枚が絵だとすると、枝だけでなく幹も根っこも必要。しかも一定の時期には葉を散らし、新しい葉を作りながら少しずつ成長する。そうして太い枝と、無数の葉を持つ大きな木になり、やがて枯れていく。その全体もまた一枚の絵(映画の方が近いか)、そんな感じ。

この絵はテンペラで描き始めた。小さいし、テンペラのまますんなり終わってみようと思っていたが、中心部の茶色(ここはその上に何度も白を重ねていくつもりだった)が妙に美しく感じたので、そのまま残すことにした。そこから方針が変わり、逆に周囲をアキーラで厚めに白くした。背景の黄色はテンペラの茶→テンペラの黄→油彩の黄→テンペラの黄と繰り返している。途中に油彩を挟んだところが経験によるもの。白は油彩でほんのり赤みを帯びた感じにしようか考えているが、元々のアイデアはそのようなニュアンスを拒否し、あくまでフラットに描くつもりだった。なぜ考えを変えたのか、その理由も、そのこと自体の是非を考えることも絵の大切な要素だと思う。

水彩+パステル

「冬・午後」2019 F10 水彩・パステル

水彩+パステルという組み合わせで描くのが、ごく最近の試み。水彩とパステルの組み合わせ自体はごく一般的な方法なのに、自分の中では作例が少なかった。改めて始めてみると、両技法のいいとこ取りができるだけでなく、水彩、パステルどちらのハードルも低くなることがわかってきた。これはとても有用な発見だ。ぜひ多くの人に勧めたい。

ハードルが低くなるという意味は、例えば上の絵では、人物の顔を水彩で描くとき、パステルを使うことを前提にすると顔の色は赤黒い面でグルグルっと塗ってしまえばそれで十分。水彩だけで描くようなデリケートなテクニックなど不要。後はコンテで強い輪郭線、水彩で塗られた面より明るい色だけをパステルで、光を描くつもりで書けばよい。パステルは暗い色が苦手だが、そこを水彩で下塗りをしてもらうので非常に楽に描ける。パステルの色数もたくさん揃えずに済み、一石二鳥。

問題はパステルの定着力くらいかな。定着液でしっかり止めようとすると、パステルの鮮やかな色が沈んでしまう。ギリギリ最小限に留めておく方がよい。まあ、粉末状の絵具は落ちるものだと考え、あまり永久性にこだわらない方が楽しくできそうだ。

Apple-2

「Apple」 2019 F6  Oil on canvas

私の「Apple」の最初の登場は1980年代後半だから、少なくともすでに30年以上、中断しつつ続いている。今また新たにシリーズ化しそうな感じだが、ここらへんで言っておきたいのは、 「Apple=リンゴ」 と変換して欲しくないということ。

私はほぼ一年中、毎夕食後にリンゴを食べる。「りんご・リンゴ」は私にとって「実物」であって、単なるイメージではない。また、私はリンゴのことをふだん「Apple」とは呼ばない。だから、作品としての「Apple」 は私にとって、一つのかたちとしてのイメージ(抽象)であって、食べたりする実物の対象を描写しようとするものではない。「Apple」は「Apple」という、リンゴとは全く別物、次元の違うものだ、と考えて欲しいのである。

そう考えてもらえれば、この絵はすんなりと見たままに理解できる(はず)。全体としてはリンゴのようなかたちをしているが、よく見るとムキムキマンの男が、(マントのようでもあり、羽のようでもある「翼を持って」)飛んでいる絵が見えてくるかもしれない。それが「Apple」である。

実は、このような仕掛けの絵は世界中にずっと古い時代からあり、私もそれらを参考に、これまで何度も様々な試みを重ねてきた。けれど最近の「Apple」は(私自身の制作の中では)これまでのものとは明らかに違う意識がある。この先どうなっていくか、自分自身でも少し楽しみでもある。