絵画の原点 2

アメリカ芙蓉

「自由に描く」ということと、「好きなように描く」のとは同じことだと感じる人もいるだろうが、私の感覚とはかなり異なる。

私にとって、自由に描く、とは「自在」でもある。勝手気ままに描いても、なおそこに自分がいる=自在でなければならない。「自由」と「自在」のバランスが要る。時には高度な技術も、知識も必要だ。「好きなように」にはそのような制約も緊張も感じない。けれど、ある境地に達したら、そんな区別など笑い草に過ぎないのかも、とも思う。

もう一ついえば、(これは私自身の偏屈かも知れないが)「好きなように」には、決して画家自身のものだけでない、他人の好み、ことばを変えれば迎合的なものを含むようにも感じられる。

「画家」は、和洋を問わずひとつの「職能」集団としての長い歴史を持っている。そこでは個人的才能など、時には邪魔でさえあった。先に「迎合的」と書いたが、他人の、どのような趣味にも応えられることこそ、画家としての実力であった。アマチュアというものが存在しない時代では、それは当然というより、必然であったろう。そうした中にも、良いものは良く、自由自在に振舞える才能があったことは、過去の膨大な名作群が証明済みである。

それに照らしてみれば、私のいわば「自由論」は、無能なるがゆえの、負け犬の遠吠えということになるだろうか。(この項まだ続きます)

絵画の原点

アメリカ芙蓉

絵画の原点。大げさなタイトルのようにも見えるが、私には次第にハッキリしてきた、と思う。

絵画の「原点」はある意味、時代とともに動いてきた。だから、ここでいう原点とは、「現代において」である。とはいえ、人間の歴史が途切れることなく続いてきたように、歴史的な「原点」も現代の原点に繋がっていることは当然だ。

「自由に描くこと」。それが原点であり、それが最終的な「理想」である。それを忘れないこと。多くの作家がいて、それぞれ自由に好きなものを好きなように描いている。全ての画家が理想を達成、謳歌しているように見える。が、それは本人を含めて、殆どの場合、「錯覚」である。「自由に描く」ことと、好きなように描くのとは次元が違うことに気づいていないからだ。(この項続きます)

「この一枚」を描くために

浮かぶ男-2018 習作

第32回晨春会展(正式名称:晨春会’18展)が始まった、というより、明日と明後日で終了する。月日が流れるのは早い。既に追いつかれ、抜かれてしまっている実感はあるが、まだ微かに背中が見えているような気がする(錯覚?)

絵とは何だろう、と何万回考えたか分からないし、おそらくあと数千回は考えるに違いない。そして結論はたぶん平凡なものだろうと想像する。考えても考えなくても大した違いはないかも知れないし、下手に考えない方が良かったということになるかも知れない。

けれど考え、迷う。きっと、それが「今」を生きているということだろう。以前の絵は良かった、何故あのように描かないのか、とたくさんの人たちから、何百回も訊かれる。そして、それに応えることは今も出来ていない。自分でははっきりとは判らないが、たぶんそこは卒業したのだろう。「この一枚を描くために、それら全てを捨てたのです」と言える絵が生まれてくることを信じて。