音楽の「力」、芸術、スポーツの「力」

「西洋梨」 29Jan’20  水彩 F6

坂本龍一という音楽家がいる。もとYMOのメンバーなどと言わなくても、知っている人の方がたぶん多いだろう。先日、朝日新聞(電子版)での彼へのインタビュー記事を読んで、全く共感した。

「音楽の力」という言葉、言い方が嫌いだという。音楽に人を勇気づけたり、癒したりする力があるのは事実として、そういう「言い方」に違和感を持つというのだ。はっきりとは言わないが、その言い方がある種の政治的、社会的な方向への指向性を持たされることへの危険な匂いを嗅いでいる、ということだと感じた。その嗅覚に深い共感を持つ。

ワグナーの英雄的な響きがナチスに最大限利用されたように、日本でも歌謡曲的な音楽が半ば「軍歌」として広く歌われ、戦争を美化する方向に利用されたことは多くの人が指摘する。また、彼は高校生たちが(スポーツなどを通して)「感動させたい」という言い方をすることも「嫌だ」という。受け取る側が感動するのはいいが、演じる側が「感動させる」というのは傲慢ではないか、ともいうのである。これにも深く共感する。ついでに言えば、特にスポーツの若い選手たちがやたらに「感謝」という言葉を連発することにも、私は強い違和感を感じる。それは引退の時にこそふさわしい言葉ではないか。

選手たちが競技のための施設や助成金、多くの有形無形のサポートに対する感謝の気持ちを持つのは、もちろん悪いはずはない。けれど、素直な気持ちだけではない、「言わなければ」ならないという「圧力」を私はそこに感じる。その言葉がなければ、後でいろんな形でのバッシングがあることを、選手も関係者もひしひしと感じているからだ。無意識に「私たちの税金を遣っているのだから、感謝して当然」という感情が、そのまま上から目線の圧力になっていることに、私たちはもっと注意深くなければならない。そして、そのことをよく識っていて、密かに利用する暗い力があることにも、同時に意識的でなければならない、と思う。

音楽の力、芸術の力、スポーツの力。それが、人々を多様性でなく(実はこの言葉も最近特に聞きたくない語になってきた)、平面化する方向に働く(ここでは「共感」「感動」という語も怪しい匂いを漂わすことがある)ならば、それは本物の「音楽、芸術、スポーツ」の力を削ぎ落とし、歪なものに変質させる、一種の癌にもなり得るのだ。龍一氏曰く「やっていること自体が楽しい。それが大事」。そう。その存在を見るだけで、税金などとっくに元は取れているのである。

欠点

「Apple」  2019.12 F6  tempera

「欠点」って、なんだか恥ずかしく、隠したいことのように思えます。でも、どうやらそうでもないようなんです。

皆さんはテストで「満点」をとったことがありますね。ニコニコしてうちに帰り、親に見せましたね。親もニコニコして、おかずがちょっと増えたりして。それできっと「次も満点をとりたい」と思いましたね。

ところが、決して勉強をサボったわけでもないのに、次からはなかなか満点は取れなかったでしょう。他の子だって満点をとって、親のニコニコ顔を見たいし、おかずも増やして欲しいと思っているからです。先生だって、毎回毎回全員が満点をとったら不安です。「私のテストの作り方がおかしいのかしら」。悩みすぎて自殺してしまわないためには、テストを難しくするしかありません(テストをしない方法もあるのですが、この国ではテストでできるだけ子どもを苦しませ、こんな苦しい思いをするくらいならもう勉強なんかやめて働くのがいいさと思わせて、労働人口を確保しようという政策で学校を運営させているのです。先生も公務員である以上、逆らえば、国に人質にとられている自分の子どもと一緒にホルムズ海峡へ送られてしまう危険性があるのです)(冗談ですよ、念のため)。

そんなことは子どもでも知っていますから、そこは阿吽(あうん)の呼吸で、適当に平均点以下だったり、あと少しで満点だったり、操作をしましたね。先生も自殺せずに済み、「惜しかったね」「今度は頑張ったね」と気楽に褒めてくれたと思います。子どもが、本当は親や先生より賢いことは、子どもなら誰だって知っています。

「欠点」というのは、そんなふうに周りを平和にするものなんです。自分よりかけっこの遅い子がいる方がみんなは安心だったじゃありませんか。そしてその子に優しくなり、「一緒に練習してあげるよ」と言ったはずです。かけっこで一番遅い子になるのが心配ですか?戦争中、かけっこで一番になるような子は、日の丸の旗1本持たされて遠いジャングルに送られ、そこで機関銃や飛行機に追われて走り回り、75年経ってもいまだに帰ってこないじゃありませんか。

「欠点」があって、初めて人は物が見えるようになります。欠けているところから、世界が広がるのです。「満点」のような人間になってごらんなさい。目が塞がっているのと同じです。自分の影すら見えないから威張りくさり、他人を馬鹿にするのが当たり前になってしまいます。欠けた穴から、自分の影をよく見、時々その穴から世界へ出入りするのがいいのです。

きれいで、気持ちのいい絵って、ダメなんですか? 2

「Apple のある風景−2」  2019

前回、ちょっと説明しきれないところがあり、補足します。本来は「きれい、気持ちいい」の中身を考えなければならないはずですが、字数の関係であえて触れませんでした。

前回の内容を一言で言うと、鑑賞者の立場での「きれい、気持ちいい」と、表現する立場からのそれとは同じものではない、ということでした。けれど、多くの人は鑑賞者的な立場からのまま「きれいで気持ちいい」絵を描こうとします。ここでは鑑賞者と表現者の立場が一致しています。よく聞く「飾れるような絵を描きたい」という言葉が、そのことを示しているように思います。自分のことを振り返ってみても、確かにそうだったと思います。一方で「好きなように描けばいいんだよ」とも言います(私も)。そうすると「きれいで気持ちいい絵」が好きなら、そう描けばいいんじゃない?ということになりますね。

論理的にはそうなります。また実際にも「好きに描けばいい」のだし、そういう人が多数ならいずれ(世界も)そうなるに決まっています。なので、ここまで来ると、前回一般論であるかのように述べたことが、むしろ私自身の「偏った」考え方だったということになるかも知れません。なるほど、考えてみるとそうかも知れません。私は多数決が必ずしも正しいなどとは思いませんが、現時点では鑑賞者の視点と表現者の視点が異なる(べき)という人の方が多いのではないか、そしてそれは大事な感覚ではないかと感じています。

ここまで来ると、どうしても「きれいで気持ちいい」の中身を一度問わなくてはならないような気持になります。少し急いでしまいますが、私はこれを「迎合」と「自然」とに区別できたら良いと思いますが、それを上手に区別する方法を知りません(単語が適切でないかも知れません。ご指摘下さい)。「迎合」は一つの歴史観、「自然」は一つの哲学と言っていいかも知れませんが、きっちり分けることは至難です。哲学者ならここを疎かにはしないでしょうが、私には難しい問題です。国語辞典とは違い、私の目の前の、間近に制作する「○○さん」に直結する意味でなければなりません。そのうえで「迎合」とは何かといえば、○○さんにとっては自分の育ってきた環境に自然に「なじむ」ことであるかも知れませんし、分類の仕方によっては単に「適応力」と同一視されてしまうかも知れません。「自然」もまた、「生まれたまま」ということは現実的にはあり得ませんので、稀有な自然環境の良い場所で暮らすか、ある社会的試練を経たのちの、「ありのままの自分」という一つの境地にたどり着いた「自然」なのかも知れません。そこでの個別性を、細かくより分けて言葉を定義していくことは困難ですが - それでも俯瞰的に見れば、一般的な「きれいで気持いい」が、幾らかはこれまでの(自然的・人間的)環境に対して迎合的なのかなと、偏見を承知の上で感じます。同じ水平線上で、自然とは(ある意味逆に不自然とも言えますが)より多く、自分の身についた迎合性を削ぎ落とした自分自身のこと(人によりけり)と定義します(人生の上で身についた「迎合性を削ぎ落とす」なんて、言葉の上でしかできないような気もしますけど)。

そのうえで、「きれいで、気持ちいい」絵を描くのは悪いことなのか、という質問に改めて向かい合ってみたいと思います。①「きれいで、気持ちいい」は初心者の自然な気持 ②「きれいで、気持いい」の意味を立ち止まって考える ③それが自分自身の「現在・現実」に合っているならば、「善」と信じて迷わず進む。  きっと、私もそうしてきたのだと思います。