エスキース

アマゾニカのエスキース

青いカモメの絵画展が終わって5日目。もうすっかり1年ぐらい「過去」のような気がするが、気持ちとは裏腹に、展覧会のビデオ製作などが思うように進まないため、スパッと頭を切り替えて次の仕事に入ることができない。こういうのって嫌なんだよなあ。

アマゾニカという植物の鉢植えを買ったのは2年前?名前からして、いかにも熱帯ジャングルっぽい野性味に惹かれて何度もスケッチしたのに、1枚もまだ作品化できていない。こいつを青いカモメ展以後の、木立ベゴニアに続くニュー・ヒーローにしようと思い立った。

アマゾニカはかたちが単純だから、スケッチするのはごく簡単だが、「絵にする」となると、その単純さが逆に障害になる。デザイン的な面白みが強すぎて、その上に精神的な深さをかぶせていくことが難しいからだ。言葉を換えれば、日本人的感性に合わせにくいということだろうか。

エスキースとは、本制作または作図に入る前の「アイデアの整理」作業のこと。語源はよく知らないがたぶんギリシャ語だろう。このエスキース(案)では、アマゾニカのかたちはそのまま。色はグリーンを基調に彩度、明度を換えて2~3種類。アクセントに白を使おうと考えている。この「白」をただの余白でなく、きちんと意味のある表現にしたい。3種類のグリーンの配置は感覚的だが、「線をまたぐ」ことが重要だ。数日後に試作をこのブログに掲げたい。

人生の絵

           Oさんの作品「無限」2021      F30 アクリル

青いカモメ展が始まった初日、悲しい知らせが会場にいるわたしにひっそりと届いた。

5日前の午後、予定の時間よりだいぶ遅れて、公民館2階の絵画教室に彼女の絵が届いた。でも本人がいない。聞くと1階には来ているという。絵を運んできたのは公民館の職員。なんでだろうと思っていると、その人が車椅子がどうこうとか呟いた。誰が車椅子?と思っているうちに本人が来た。「階段がきつくて」登れず、遅くなったという。心臓が悪いのだ。肩で息をしている。

こんな時になんで無理して持ってくるんだ、休まなくっちゃ、とわたしは言ったが、どうしても見てもらいたかった、と言う。絵が届いたとき、最初の一瞥で彼女のこれまでで一番の絵だと思っていたので、そう告げた。「少し修正するとすればここ」と欠点とも言えないような小さな点を指摘した。でも、今やらなくてもいい、まずは体を大事にして休まなくちゃ、と付け加えたが、まさかそれが最後の会話になるとは思っていなかった。

作品の配置計画を考えているとき、わたしは彼女の絵を目立つところに置こうと決めていた。もちろんどこにおいても目立つ絵ではあったが、同じように悩みながら描いている仲間に、こんなふうにのびのび描けばいいんだよ、と彼女の絵を通じてメッセージを送りたいと考えたからだ。ある意味で、彼女は今のわたし自身の絵に対する問題の一部を肩代わりしてくれていた。線と面の関係、それらと色の関係という造形性の問題。そしてそれと「作者個人」を結び付けるという、まったく次元の異なる、でも芸術にとって避けて通れない課題に対する追及を、彼女はわたしと同じゴールを目指して進めてくれていた。たぶん、彼女自身もそう感じていたと思う。それはある意味で楽しくもあったろうが、結構きつくもあったに違いない。そして、わたしより一歩先に見事な答えを出してくれた。

残念という言葉ではたりない。時間が経つにつれてだんだん喪失感が深くなってくるが、そう思いながらも半分くらいは、まだ何かの間違いではないかという気持ちが拭い去れない。次の絵、その次の絵も見せてもらいたかった。彼女はこのブログもよく読んでくれて、時々感想も聞かせてくれた。それを聞きながら、次のブログで関連したことを書いたり、それに関わる絵を載せたことも何度かある。絵を見ると、そんなこまごましたことも含め、彼女の人生がすべてそこに描かれてあるような気がする。

「期待に応えない」強さ

この美しさも誰かに見てもらうためではない

「期待に応える」ためには相当の努力が要る。その努力を周囲は称賛し、幸運にも結果を残すことができれば輝かしい人生となる。それが社会(の掟)だと、わたしたちはそれらの言葉も知らないうちから教育されてきた。期待に応えられない人々はダメなやつだと烙印を押され、社会の中で底辺に押しやられ、場合によっては体よく排除される。期待に応えられないことは一種の恐怖である。だから、「期待に応えない」という意思には、ある意味で「期待に応える」以上に強靭な精神力が要る。

パラリンピックのメダリストなどが「諦めなければ誰でも奇跡を起こせる」「努力すれば誰でもなりたい自分になれる」などと言うのは、似たような境涯にある人だけでなく、広く若い人に希望を与えるという意味で、社会的な「効用」がある。彼らの言葉はもちろん本心からのものであろう。けれどその発言は、「努力することの大切さ」という「道徳的効果」として本心とは切り離して称揚、利用される。彼らもまた自らの発言の意味、その効果はよく理解している。けれど彼らは「期待に応えることができた」一種のエリートであることを忘れてはならない。はるかに多くの人たちが、そういう努力が可能な環境にさえ恵まれていないということを、わたしたちは知っている。「努力するのが当然」という社会認識は一種の圧力・強制力でもある。それを心理的に苦痛と感じる方が、むしろ普通の感覚ではないだろうか。

一方、芸術家というのは、本来「期待に応えない」という意思を鮮明にした人々である。芸術は何かを期待されたりすること自体が矛盾を抱えてしまう。芸術家は広い意味では社会に対して挑戦的ともいえる生き方を選択した人々でもある。芸術家たちが本質的なところでは称揚されず、ことあれば真っ先に政治・社会体制に弾圧されたりするのは、そういう理由からであろう。挑戦的ということは「反社会的」ということを意味しない。むしろ全く逆で、「先進的」と言うべきであることの方が少なくない。企業などが常に技術革新など変化を求める経済社会とは裏腹に、生活レベルでの社会というものは変化そのものを嫌う、とよく言われる。パソコンの苦手な人々が、無意識のうちにそれが得意な人々を憎みがちなのはそういうことだ。だからぬくぬくと、一つ所で満足できる自分たちとは異なるものに、「反社会的」というレッテルを貼ってその流れを押しとどめようとする。「今の若い人は」とわたしたち老人が眉をひそめるとき、そういう心理が働いているかも、と考えてみることは間違っていない。

期待というのは「誰かに」求められているものだ。その「誰か」が誰なのかを考えることは無駄ではない。芸術家は誰かに何かを期待されることを望まない。それはうっかり自分以外の人間になろうとする危険があるからだ。努力は人を磨きもするが、自分を無駄にすり減らしてしまう可能性も持つ、諸刃の剣である。正直に言えば、他人の期待に応えようとする努力は誰にとっても無駄だ、と思う。自分が好きなことを自由にやることこそ、そのような圧力に押しつぶされようとしている人をも解放するものだと信ずる。誰にも期待などされず、期待されても無視し、自分のやりたいことをできる範囲でやる。そんな「強い意志」がわたしにはまだまだ足りない。