イメージと脳

「 Apple 」  2020  F4

まるでカボチャのようだな、と自分でも思う。別の、細長く引き伸ばした「 Apple 」は「ピーマン」と紹介された。これはきっと「カボチャ」と言われるに違いない。

わざわざ「リンゴ」と訳して(?)くれる人もいる。まあ、カボチャでもピーマンでもどっちでもいい、としよう。でも、「リンゴ」は今のところ、ちょっと抵抗がある。英語圏の人に「リンゴ」と発音するなら、音だけ聞いてもたぶん理解できないだろうから構わないが、日本人に「リンゴ」では、たぶん「実物」とのイメージが切り離せないと思うから。つまり Apple はあくまで「日本人向けのタイトル」だということだ。

テーマは「線、面、色」であって、 Apple は単にイメージ(記号)として喚起するための仕掛けに過ぎない。カンディンスキーに「点・線・面」という、現代美術の出発点とも見なされる著書がある。絵画の実体的な構成要素は、確かにこれしかないのだが、いろいろな考え方があり、今は深入りはしないでおこう。ただ、それが「絵画」として提示された瞬間に、それらが一斉に反転して別の新しいものになる、それが見る側との間にスパークする、一種の「創作(作用)」だと私は考えている、とだけ言っておこう。

理屈っぽいが、絵を描くということは、単なる条件反射やカメラのような機械的繰り返しではないのだから、程度の差はあれ、誰でもそれなりの理屈を持って描いているはずだ。「理屈で描くな」という古くからの名言?こそ、一つの立派な逆説であろう。何にせよ、多少とも「脳」を刺激しない「創作」など、あらゆる意味においてあり得ないからである。

Appleで考えること

「 Apple 」 2020 P50 tempera, Arcid on canvas

「青いカモメ展」出品作の一つ。写真は出品時より少し前に撮ったものらしい。中央部分はじめ、細部もう少し描き込まれる前の状態のようだ。写真を撮るのも忘れていたらしい。

「どうしてこんな絵を描くようになったんですか」と、よく聞かれる。尋ねる側にも「以前の絵の方が良かったのに」という思いがある人と、「何が面白くてこんな絵を描くのか理解できない」という思いの人とがあるように見える。どちらも「つまらない」と言いたいのだけれど、気を遣った言い方をしてくれているに違いない。ありがとう。

いずれにしても、一言で答えることはできないが、前者に対しては「済みません。力不足で」というしかないし、後者に対しては「むしろ理解などせず、そのまま見てくれればいい」という答えを、とりあえず用意してある。確かに、自分でも面白く、楽しく描いているわけではないから、そう見えないのも仕方ない。これは、私にとって「課題作品」だから、ある程度辛さを我慢しつつ描いているのである。

どんな課題かといえば、「造形要素だけで成り立つ作品を作る」ことと「思想・感情を込める」こととの両立ということ。「なあんだ、それじゃ全ての絵がやっていることじゃないか」と言われれば、まさにその通り。ただ、私自身には、両方同時進行はうまくできないようだ。自分の弱い方、勉強次第で改良できる「造形」の方に力を入れている結果が、現在のかたちになっていると言えば、納得してもらいやすいのかもしれない。

Apple-Blue

「 Apple – Blue 」 2020

昨日から「青いカモメの会・絵画展」が始まった(20日16:00まで)。その搬入のため作品を車に積むとき、初めて気がついた。「あれっ、仕上がってない」。

思い出してみると(出品作は「頭の中ではすでに仕上がっていただけ」で)、目の前の別の作品が、今にも奈落に落ちていきそうで、それをなんとか救い出そうと、数日「 ICU」 状態で一生懸命になっていたのだった。

「奈落の底に落ちそう」だった絵がこれ。いろいろ手を尽くしたが、すでに落ちてしまっているかもしれない。なんだか、地獄のような風景にも見えるし。「Blue」とつけ足したのは、気分がとてもブルーだったから。手当ての甲斐なく、絶命した患者を見下ろしているDr.になった気分だ。

がっかりしながら眺めていると、なんだか情けない「自画像」にも見えてきた。1950年代の旧式ロボットの図体に、イカれたゼンマイ仕掛けの「脳」を載せた自画像だ。「何を描こうと、すべて自画像」と常々心しているが、その意味では、これはまさしく私の絵以外ではありえない、と思えてくる。あまり楽しくない、生き方もその表現もチグハグ。でも、とりあえずもう一枚描いてみたほうがいいんじゃない?と絵自体がそう言っているように見える。「いかに裸になれるかが本物かどうかの分かれ目だ」と、誰かの言葉だったか、私自身の想いだったかもう思い出せないが、こんな絵を描く以上は、私も(もうしばらくは)ゲージツ家なのかも…だ。