青い柿

柿はよく絵の画題にされている。小中学生の図画工作、美術の授業からアマチュアの画家たちの制作まで、手に入りやすい画材で、しかもそれを食べてお終いにできるというおまけ付きだからなおさら。

でも、みんなが描くということは、それがありふれ過ぎているということでもある。どんなに上手に描いても、それだけではもうインパクトがない。高名な画家たちは美味しそうな熟した色の柿を避け、あえて青柿を描いた。日本画家の小林古径「青柿」などはそういったなかの名作のひとつだろう。

青柿をしげしげと見る人は、柿の生産農家や家族用の庭木として育てている人以外にあまりいないと思う。一般の人にとって、柿とは商品になってスーバーに並んでいるものであって、画家たちは逆に、商品になった(なってしまった)柿などに画題としての興味がなく、まだ手つかずの、それも商品価値のまったく無い「青い柿」にこそ、ナイーブな芸術の香気を見出した。
 一方、「アイスクリーム」「天ぷら」など、人の手で加工された「商品」を、今の若い人たちはむしろ「新しい画題」として正面から捉えている。コマーシャルアートとしてではなく、純粋なアートとして。「お弁当」とか「ラーメン」を画面いっぱいに描かれた作品を始めて見たころは「こんなものを描く気になるのか」という衝撃を受けたものだったが、今ではそれすら古典的な感じさえしてきている。

さて画題としての「青柿」はこの先どうなるだろう。伝統的画題のままやがて描かれなくなって終わるのだろうか。かつての画家たちが感じた「ナイーブな香気」を、わたしもまだ少しは感じる派なのだが・・。

石丸康生個展から

石丸康生個展会場ーギャラリーなつか(東京・京橋。18日まで)
作品の部分

石丸康生さんの個展に行ってきた。涼しいと思って出かけたが、台風23号の影響か、意外に蒸し暑かった。石丸氏は相変わらず?お元気で体力モリモリそうだった。相変わらず、というのは展示された作品たちから発するエネルギーが、前回に比べても少しも衰えていなかったから。

いつものように大きめの作品がずらりと並べられていて、一見単純な仕事のようにも見えるが、よく見ると実に繊細で、存分に時間をかけているのがよくわかる。

制作の動機には、第二次大戦時、日本軍の特攻兵器「人間魚雷-回天」の基地であった大津島の存在と、自身の成長期とが深く関わっているという。けれど、見る人はそんなことを知る必要はない。ただ素直に作品に対すればよい。

作品から感じるのは「傷」。痛みのイメージとかではなく、傷がそこにあること。あえて暴くように見せつけるのでもなく、あえて隠そうとするのでもなく、そこにある傷を見る。飽くことなく、また淡々とでもなく深く傷そのものに共感(しようと)する。そんな作家の姿勢、視線を感じる。

練習しよう

   「駆ける子ども」  荒目の紙に水彩

紙質に合わせた色と筆遣いの練習です。―描けばかならず「うまくできないところ」に出合う。テクニックが未熟なのか、理屈がちゃんと理解できていないのか、集中力がないのかなどなど理由は様々だが、いずれにせよ「うまくできない」ことにぶつかる。

練習すれば誰でも上達する。でも、それは無限ではない。ある一定のところで上達は止まり、そこから先は、それを維持するだけでもそこまでの何倍か大変で、やがて体力の低下とともに維持できなくなり、「レベル」は低下する。「一定のところ」の一つは年齢(体力)か、と多くの人は想像するだろう。体力的なことはどんな人も避けて通ることができないから、これは納得がいく。精神的な面も、幾分かは年齢と不離不即の関係にあるだろうと考えるのも不自然ではない。

けれど、何歳くらいで上達が止まるかという質問には、実は意味がない。80歳から始めても、情熱があるうちはどんどん上達する。一方20歳で始めても4、5年経つと上達が止まる。少なくとも、目に見える上達の程度というのはそんなものだろうと思う。つまり技術的なレベルというのはある程度決まっていて、早かろうが遅かろうが、とにかくそこがゴール。そういう意味では、なるべく早く到達する方がそのあとの時間が長く使えます、って感じでしょうか。

「うまくできないところがある」。それをどう乗り越えるかは経験によって変わってくる。体力と違って、経験は増える一方だから(物忘れもあるが)、体力の低下を経験智で補なうどころか、それによってもっと発展的な技術を生み出せる可能性は、けっして小さくはない。
 要するに、どんな場合でも、がっかりすることなどないってこと。練習することで誰でも「経験智が増す」。「できないことがある」から、経験智が一層深く豊かにもなれる、ということなんですよね。―練習しましょうね、皆さん。