能天気な絵

               「アジサイのイメージ」   アキーラ

とりあえず、アジサイはこれでいったん目途打ち。真剣で神経質な絵も現代を反映しているかのようで心を捉えるが、描くのも見るのも少し辛い時がある。そんな時、色で遊ぶだけのような、こんな能天気な絵が硬くなった心をほぐしてくれるような気がする。

世界は両面だ。必ずといっていいほど、良い面と暗い面を持っている。「平和のための戦争」なんてバカバカしい言葉だが、現実を見るととても笑えない。畑にするために木を切り、草を焼く国があるかと思えば、乾燥と土の流出を防ぐために木を植え、草を増やそうとする地域もある。人間だって、一つの命を長らえるためには他の多くの命を奪わなければ生きていけない。一つの論理だけで世界は成り立っているわけではない。

美しいもの。それは力(パワー)や論理ではないからこそ大事。

リメイク

「桜のある水辺(部分)」 水彩
「桜のある水辺(部分)」  水彩、アクリル

下の絵は、上の絵に加筆修正したものです。リメイクというのはちょっと定義が違うかもしれませんが、ほぼ別作品になったという意味でそう言っておきます。

平凡なスケッチが、イマジネーションを加えることで生まれ変わりました。良くなったかはともかく、絵としての存在感はずっと強くなりました。イメージを練り直し、余分なところを切り捨てるとサイズは小さくなりますが、そのぶん絵が引き締まってくるようです。その感覚を鍛えるのにはリメイクがいいかも知れませんね。でもまずはそのための「失敗作」をたくさん作ることが必要ですね。

「完成」ということ

            「アジサイの構成」  ペン・水彩

上は制作中。下が完成作。2枚を並べてパッと見えるのは、制作開始直後の「鮮度」。何を描こうとしているかが制作中の絵では単純明快なのに較べ、下は画面全体に目配りがされ、そのぶん逆にインパクトが弱くなっているということ(撮影場所を替えたので色が異なり、別作品のように見えるが)。別の言い方をすると、上の段階で止めておけば良かった、のかもしれない。実は多くの人が毎日のように、「あそこで止めておけば」という経験をしている(はず)。

けれど、それは結果論であって、現実にそこで止めることはほぼ不可能なこと。その時点で完成作は(ある程度予測はできているが)まだ存在していないのだし、作者の頭には “希望” しかないからである。そこで止められるようになるには、非常に多くの痛く、苦い経験と、それによって深化した造形思考の蓄積が必要だ。

で、要するに完成作が途中段階より悪くなったんですか?といえば、そんなこともないと思う。確かに鮮度は少し鈍くなったかもしれないが、そのぶん見る楽しみは増えています。作品の中身というのは鮮度だけではないのです。美味しい刺身だって、切れ味鋭い包丁さばきと落ち着いた環境やいい酒と合ってこそ美味しいものでしょ?釣れたての、まだ生きている魚にいきなりかぶりついたってそれはそれ、なんです。素材の鮮度はもちろん大事。それを料理する腕も劣らず大事。なんて、言い訳に聞こえているでしょうか。