藤澤伸介個展から

個展会場にて。手前が藤澤さん
ワイヤーによる造形、「JAZZ」
キリンビールの箱からだろうか、麒麟のプリントをコラージュしているのも藤澤さんらしい
「ベランダの夜の雨」

東京・神楽坂のギャラリーAYUMI で開催中(11/14~19)の「藤澤伸介個展」に行ってきた。「走り出す色 笑い出す形」と題した展示だが、―切り紙とワイヤーアートで音を視る―と副題がついている。色、形が「音」で繋がっているコンセプト。

作品を見ながらつくづく感じるのは、技術は練習次第である程度真似ができるけれど、センスというのはそれができないものだ、ということ。水彩絵の具を塗った紙をカットし、既に貼りつけられたそれらの上にさらに大胆に重ねていく。言葉でいうとたったそれだけのことでさえ、誰も同じ(印象の)ものを作ることができない(それは全然マイナーなことではないけれど)。

なぜできないかと言えば、そこに藤澤さんのこれまでの人生(のすべて)が重なっているからだ。―カッターナイフの尖端があるところで止まり、曲がり、断ち落とす。どこに貼りつけるかはほとんど直感以外にないが、偶然ということもあり得ない。
 一本のワイヤーにしても、彼の彫刻家としての経験以前に、自分自身の身体的リアクションと一体になった素材の選択眼というものが、かたちと同時にある。そんなふうな感覚(五感)に素直になる(なれる)ことに作家の感性の柔らかさをわたしは感じる。藤澤さんの個展を見るたびに、毎回その素直さに衝撃を受ける。そして、まだ多くの人に知られていないことをさらに惜しむ。

        「こどものかお習作」  ペン

顔をペンで描く練習を少し続けてみる。特に子どもの顔は柔らかいので、普段なら鉛筆で描こうとする。ペンのような硬い筆触は合わないと、避けがちだった。

自分勝手に思いこんだ “一種のタブー” だが、意外に自分を囲い込んでしまっていたかも知れない。サイズに関しても然りで、鉛筆やペンは小さな画面にしか適さないと思いこんでしまうと、ちょっと大きな画面にすぐ手が出なくなる。巨大画面に鉛筆だけで描く作家の作品を知っていてさえ、手をこまねいてしまう。小さなことが自分を囲い込んできたのなら、小さなことで、その囲いを破ることもできるかもしれない。

二紀展、独立展を観て

昨日(10月20日)、乃木坂の国立新美術館で二紀展と独立展を観てきました。旧知の作家が二人も黒リボンつきで展示されていたのが悲しく、寂しい。

展覧会は団体展であれ、個展であれ、一種の体力勝負の場でもあります。集中力、研究心さえ体力がなければ続きませんから、体力も “実力” の一部であることは間違いありません。体力がないと展覧会を観に行く事さえできません。地方に住んでいる人はそれに加えて財力もないと、東京の展覧会に出品はもちろん、観に行くことさえかなりの負担です。
 団体展の会場では図録も売っているし、ある程度の団体ではホームページなどで会場作品を公開したりしていますが、絵を描く人は、実物作品を自分の目で見る必要が絶対にあります。一本の黒い線がどんな材料で描かれているのか、どんな下地にどのくらいの速さで引かれているのか等々、図録などではまったく分からないのです。

でも、それはそういうところに出品する人たちの話。一般の人は、むしろ大づかみに色やアイデアを楽しんで欲しいし、描く場合でもそんなふうにのびのび描いて欲しいものです。もともと絵は他人と競争するようなものではないでしょうから。

楽しく、のびのびと子ども心のままに描き、その積み重ねが知らず一つの高みに達する、というのが理想ですが、そんなこと、誰にでもできることではありません。都会の展覧会へ無理しなくても、小さなスケッチブックを持って、あるいは図書館から画集を借りて、絵に親しむ機会を増やすだけでも意味はあるんじゃないでしょうか。
 天才たちの作品や、展覧会の作品は、それぞれの道すじでの道案内のようなものなんです。