いよいよ個展だ。

ホニュウルイの風景 F6 2011

いよいよ個展。全然準備らしい準備も出来ておらず、これからジョイフルへ行ってテープを買い、額縁代わりに周囲をぐるりと回して出品しようという横着な神経に、我ながら愕然としているところ。ここ数日は筆さえ握る時間が無い(このブログは?)。

最大作はほぼ300号の「円盤投げの男」(あえて未完のまま出品)。なぜ円盤投げなのかは会場で考えて下さると有り難いですが。最小は4号の数点。時間からいえば4号、6号がもっとも時間がかかり、大きくなるほど短時間で描かれている。それは今回だけでなく、いつものことだ。たぶん私自身の内面的な性向がそういう結果につながっているのだろうと思っている。

「ホニュウルイの風景」は出品作の1点。今の段階での感想だが、本当は今回の真のタイトルはこれだったかも知れないと感じている。作者としての私の思いは別にして、見て下さる方のすべてに、ポジティブなもの、ネガティブなもの、それぞれいろんな感想があると思う。ぜひ、それを聞かせて頂きたいと願っている。 2011/12/06

心臓とウンコ

片腕の男 F6 2011

絵は自分の心臓だと思っていた。

最近はそれが間違いだとは思わないが、毎日心臓の鼓動を意識しながら暮らすわけではないように、そんな風に思いこまないようにしようと考えている。

そんな考え方、感じ方が自分を深化させると、いつの間にか思いこんでいたのかもしれない。本屋で平棚を目でなぞっていると、ある本の帯に「迷っている時は、自分にとってより不利な選択をする」という言葉が目に入った。いくつかある章立てのうち、耳目を引きそうないくつかを抜き出してアピールする、いつものやり方なのだが、その時々の自分の心境や関心によってひょいと目を引かれることがある。つまり、それが今の心境を反映しているということになる。

ナショナル・ジオグラフィックという雑誌が、「世界のどこでも生き残るためのサバイバル技術」という別冊を出した。その中にも確か同じようなことが書いてあった。「迷った時は選択をせず、しばらく待て」。迷いの中では視野が狭くなり、本来ありえたはずの選択肢が頭から消えてしまうということだった(特に暗い中での選択はしてはならないとある)。

一言でいえば余裕が必要だということだろう。どんなに追い詰められても、というよりそういう状況であればあるほど、「動かない余裕」が大切だということだ。これは分かっていても難しい。いっそ選択肢が無い、一つしか道が無いと云う時には、人は迷わなくなり、心にも余裕が生まれるものだとも言う。

絵が自分の心臓だ、などと思い込むほど迷いは深くなりそうな気がしてきた。それを拝むように大事にし過ぎては、ガチガチになってかえって心臓を悪くしそうだ。逆に「絵は自分のウンコのようなものだ」と思えたら、どんどん排出、つまり制作できるのかも知れない。心臓とウンコではえらい違いだが、死んで化石になればどちらも似たようなものではなかろうか。

1991年イタリア・アルプスの氷河で5300年前(新石器時代)の男のミイラが発見された。通称アイスマンだ。昨年11月にあらためて解剖が行われ、その結果が今年の6月に一部発表された。そこで特に注目されたのは、アイスマンの体そのものより、その胃の中身だった。

人や物の価値は後世が決める。ウンコだって貴重な学術資料にもなり得るし、一世一代の絵だと力んでみても、残るかどうかは後世が決めるということに違いはないということだ。

Modern art American

Astronaut F4 2011

モダンアート・アメリカン展を国立新美術館で観た。ヨーロッパ直輸入の時代から、次第にアメリカの風土性が強くなり、やがてヨーロッパとは違う独自の道を歩み始め、そこに自信を持つに至るプロセスを分かりやすく並べてある。

ジョージア・オキーフという女性画家(写真家アルフレッド・スティーグリッツの妻でもあった)。大画面に蘭などの花の一部分だけを特にクローズアップして、女性性器かと一瞬見紛う表現などで知られている。その写真的な手法など、一流の写真家であるだけでなく、現代美術の隠れた天才ディレクターでもあったスティーグリッツのアイデア、戦略そしてオキーフの感性を見抜く目を抜きにしては語れない(はず)。

そのオキーフの作品が3点ほど出ている。どれもあまり大きくないが、そのうちの20号ばかりの、一枚の枯れ葉を描いた作品に特に魅かれた。前面に一枚の大きな白っぽい葉。その後ろに赤茶けたもう一枚の葉が重なっている。さらにその後ろの葉と、全体で3枚の葉っぱを描いているだけだ。前面の白い葉の一部に、それが枯れ葉である証拠の乾いた亀裂が入っているのが、この絵の核だと思う。背景も白。色彩は主に白と茶色の葉、それに背景の白だけの単純さで、モダンアートの旗手の一人としてはむしろ地味な絵だ。

多分実際にきれいな色の葉っぱだったのだろう。何となく拾い上げて手に乗せて見た。普通ならそのあと捨ててしまうか、描こうとして持ちかえっても結局描かずに捨ててしまう。けれど、そこに長い、一本の亀裂がオキーフの目を捕えた。何かが閃いて、それが絵になった。葉も大事だが、この亀裂が絵の核だというのはそういう意味である。もちろんこれは私の勝手な空想に過ぎないけれど、絵というのは往々にそうやって生まれてくるものだからだ。

エドワード・ホッパーの絵にも魅かれる。男が座っている。何でもない光景だし、その前にもその後にもたくさんの男も女も座っているのを見ていた筈なのに、その時その場所での男がホッパーに突然の閃きをもたらしたのだ。その男をあえてモデルに雇ったとしても、描く気持になったかどうか(制作にあたってモデルを使ったかどうかは関係無い)。

クリフォード・スティル。これら世代は異なるが、アメリカの絵画はモダン、時代の最先端というイメージが強く、日本人が真似るとことさら新奇、激しさ、けばけばしさなどを強調するが、実際に見ると案外に地味なのである。その発想も自分自身に発していて、むしろ謙虚で素朴という、モダンアートのイメージと矛盾した言葉さえ浮かぶ。日本人はアメリカ絵画の本質をどこかで見誤っているのではないだろうか。絵画の本質は、レオナルドの時代でも、現代でも変わっていないような気がする。日本でもアメリカでも。そういう大事なことを、教えてくれる展覧会かも知れない。 2011/10/16