何を見て描くのか

「水溜まりのある道」習作  水彩

高い所から見下ろした、未舗装の作業用道路。そこに水が溜まり、青い空が映っている、それだけの風景。「作業用道路」というのが、この絵のミソだと思う。

路上の水たまりに空や雲が映っている風景は、多くはないがそういう発想がないわけではない。大きめの池や湖に空が映っているのはありきたりだ。そういう意味では、それが作業用道路だからと言って、大して変わらないといえば、変わらない。

それがなぜ、わたしの心を捉えるのかと言えば、「すぐそこにあるのに、もう手が届かなくなる風景だから」なのかもしれない。水たまりに空が映るのは明日でも明後日でも、いつでも起こりうる。湖や池は少し遠いけれど、そこに行きさえすれば、かならず在る。
 けれど、こうした作業(作業の種類までは描いていないが)は、明日には無くなっているかもしれない。そんな仕事は(仕事自体は無くなるはずはないが、そういう仕事を目にする機会はどんどん遠ざかる)もう、「都会人」たるわたしたちの手に届かないところに行きつつある、それを忘れちゃいけない。そんな切なさがわたしにはある。

トラックが水溜まりを通過するたびに、映りこんだ青空は割れ、湧きあがる泥水の中に呑み込まれていく。やがてふたたび、青い空が戻り、数日後にはそこは乾いて、軽い土埃を巻き揚げる。そういうストーリーを一枚の絵に込める。だから、このスケッチを描く。

ギタリストの「背景」

「ギタリスト」 水彩
抽象的だが、どこか具体物があるような、そんな気分をつくる
場面右下「版画のような」材質感もあったりする

どんな背景でもこの絵には可能だが、このやや抽象的な背景のつけ方は “万能” だ、といっておこう。ベストであることは難しいが、安定してベターな背景を作ることができる、というオロナイン軟膏のような意味において。バリエーションもほぼ無限。

難しいテクニックは一つもないが、良くも悪くもその人のセンスしだい。そして、マンネリになりやすい、限りなく。でも、「マンネリ」は必ずしもも悪いことではない。というより、ある種のマンネリを越えたところにしか創造はない、とむかし誰かがわたしに教えてくれた。

子どもの情景・夏

「子どもの情景・夏」(試作) 水彩

写真と同名のYouTube用ビデオを現在編集中。残念ながら?この「試作」の方が出来が良いんだよね。言い換えれば、ビデオの方がイマイチってことだけど、そんなことは日常茶飯事。いま、甲子園で高校野球やってますが、それぞれお互いに練習試合などしあって、その時は圧勝したのに本番では真逆の結果、なんてのは普通だからね。野球も投手のコンディション次第で大きく結果が変わるけど、絵だってその日の気分や体調で結果がガラッと変わってしまうもの。だから、試合はやってみないと分からないというし、絵だって「一期一会」なんて言うわけよ。同じ場所で、同じ対象を描いたって、2枚同じ絵を描くことは無理。

同じ絵が複数の人の手に渡る。それが印刷という発明であり、その絵画版が「版画」である。ところが、版画をちょっとでもやってみた人ならわかるけど、実は版画もそれが手作業である限り、一枚一枚が微妙に異なるのである。いまNHK大河ドラマで江戸時代の版元、蔦屋のことを取り上げているが、本のかたちになっても、「出来・不出来」はあるのである。もちろん素人目にわかるほどの違いはないが、分かる人にははっきり分かるのである。今でも神田あたりにいけば、たくさんの江戸時代の版画なども売られている(はずだ。最近行ってないから)。そこには同じ絵柄でも「良品」「佳品」「並み」などと差がつけられている(はずだ)。エディションは一つの目安に過ぎないのだ。

大脱線。版画の話してる場合じゃなかった。もっと大事な話があったのだけど、まあ、この絵を見たら、しばし絵の方に心が行ってしまった。まあ、ビデオも期待していてね、ということで終わっとこう。