夏の終わり

この動画は、実は明日(8/24)午前8時にアップロードされる予定です。今日の夕方にはアップするつもりでしたが、最後の最後でトラブル。結局深夜になってしまいました。

「夏の情景」などと言ってるうちに、もう秋の景色が始まっているようです。動画編集のため2日ほどウォーキングも休み、仕方なく自転車で外を見に出かけたら、公園は一面の枯葉。前の記事で「枯葉ではなく落ち葉」などと書きましたが、今度は本当に枯葉。それもどっさり。一気に葉が落ちた感じです。

もちろん、この暑さの影響が大きいのでしょう。でも、蝉の死骸も遊歩道にあちこち見かけるようになってきたし、そういえば、明け方、ほんの少しですが涼しくなってきたような気もします。日中はまだ「危険な暑さ」が続きますが、もう少しです。無理せず、夏を見送る今の季節感を味わいながら秋を待ちましょう。

子どもの情景・夏

「子どもの情景・夏」(試作) 水彩

写真と同名のYouTube用ビデオを現在編集中。残念ながら?この「試作」の方が出来が良いんだよね。言い換えれば、ビデオの方がイマイチってことだけど、そんなことは日常茶飯事。いま、甲子園で高校野球やってますが、それぞれお互いに練習試合などしあって、その時は圧勝したのに本番では真逆の結果、なんてのは普通だからね。野球も投手のコンディション次第で大きく結果が変わるけど、絵だってその日の気分や体調で結果がガラッと変わってしまうもの。だから、試合はやってみないと分からないというし、絵だって「一期一会」なんて言うわけよ。同じ場所で、同じ対象を描いたって、2枚同じ絵を描くことは無理。

同じ絵が複数の人の手に渡る。それが印刷という発明であり、その絵画版が「版画」である。ところが、版画をちょっとでもやってみた人ならわかるけど、実は版画もそれが手作業である限り、一枚一枚が微妙に異なるのである。いまNHK大河ドラマで江戸時代の版元、蔦屋のことを取り上げているが、本のかたちになっても、「出来・不出来」はあるのである。もちろん素人目にわかるほどの違いはないが、分かる人にははっきり分かるのである。今でも神田あたりにいけば、たくさんの江戸時代の版画なども売られている(はずだ。最近行ってないから)。そこには同じ絵柄でも「良品」「佳品」「並み」などと差がつけられている(はずだ)。エディションは一つの目安に過ぎないのだ。

大脱線。版画の話してる場合じゃなかった。もっと大事な話があったのだけど、まあ、この絵を見たら、しばし絵の方に心が行ってしまった。まあ、ビデオも期待していてね、ということで終わっとこう。

雲を描きたくなってきた

ここ数回、怠けて絵を載せず、雲の写真ばかりでごまかしているように見えるが(そして、実際その通りなのだが)、実際に見るとカメラを向けずにはいられない。わざわざ写真を撮りに出かけるわけじゃなく、ウォーキングの帰りに遭遇してしまうだけ。汗びっしょりになっているのだが、その瞬間は汗も止まってしまう感じがする。

一番下の写真など、ただの日没などではなく、ミサイルでもぶつかった瞬間にさえ見えそうだ。何が理由で、こんなに雲、夕焼けが凄く感じるようになったのか、少し考えてみた。

①空気が澄んできたー環境対策が進み、公害問題が騒がれていた頃に比べ空気がきれいになってきたことは確か。大気汚染が進行中のインド、中国、韓国などに比べると、東京の空気は格段に「澄んでいる」といわれるらしい。②わたしの眼が変化した―加齢による視力低下が、なぜか夕焼けがきれいに感じるような生理的条件を作った―それもあり得る。でも、写真でも凄くないですか?③若い頃は夕焼けを見たり、雲を見たりしている時間が無かったから、新鮮に感じる―要するに年をとって暇になったから、じっくり見るから?それもあり得る。むかし10年ほど続けた雲のシリーズを再び描いてみようか、などとも考えている。

ウォーキングしていると気になることがある。落ち葉が多いこと。枯葉ではなく、まだ青い、あるいは黄色がかった葉がたくさん落ちている。今年の渇水のせいだろうか(関東の一部だけかも)。ともかく、植物も葉を落として身を護らざるを得ないのだろう。死んだ蝉も見るようになってきた。先日、クマゼミが大勢かと書いたが、落ちている蝉はすべてアブラゼミ。偶然なのか、二種の蝉の活動時期が若干ずれているかどうかわからないが、ミンミンゼミも含め、他の蝉の死骸が目につかないのも不思議な感じがする。