目がショボショボです

とりあえずアップロードしました。ご高覧あれ

野生の動物だって目がショボショボになることはあるはず。だいぶむかし犬を飼っていた頃、何度か犬が眼病にかかり、目薬など差した経験からもそう言える。猫もそうだった。カメレオンなどある種のトカゲは自分の下で眼を舐めてきれいにする。複眼を持つトンボも、よく見ると前足でしょっちゅう目を撫でている。もっともあれは「眼精疲労」などではなく、たんにゴミ?を掃っているのだろうけど。

動物も病気にかかるけれど、たぶん「病気」という概念はないだろうから、たんに「苦しい」「痛い」という「感覚」の中だけにいる。もちろん医者など知るわけはないから、調子が戻るまで、ひたすらじっと耐えている。

いちど、子犬が車に轢かれそうになったことがある。雪道で、チェーンを巻いた車の中に跳び入ってしまった。下敷きになるのは免れたが、回転するチェーンの端っこが眼に当たったらしく、キャンキャン鳴きながら、大きな下駄箱の奥の方に潜り込んだきり、出てこなくなった。食餌も取らず、じっと奥に潜んだまま数日。やっと痛みが薄らいだのか、空腹が勝ったのか、出てきた時は眼窩の一部が切れて晴れ上がり、眼球は白く濁ってしまっていた。―これは失明する―と思ったが、当時は動物病院などという洒落たものはなく(そもそも人間の医者さえいない「無医村」だった)、ただ見守るしかなかった。

驚いたことに、成長期だったせいか、数カ月で眼の白濁はすっかり消え、視力も回復した(ようだった)。自然の治癒力の凄さを見た思いで、今もよく覚えている。
 遠くをぼんやり見る―それが一番目を休めると眼科医に聞いたことがある。いま自分がやっていることは、その真逆。ショボショボになるわけさ。

できること、できないこと

ビデオは本文とは無関係です

「できる、できない」はどこで分けられるか。「無限の可能性」なんてあり得ない言葉は使わないが、できる可能性がどのくらいあるか、は誰でも考える瞬間があるだろう。

「(何事も)やってみなければわからない」とはわたし自身もよく使う言葉だが、おそらく日本中でこのフレーズが聞こえない日は、一日とて無いに違いない。けれど、ちょっと考えてみると、それはある程度可能性がある(と推定される)場合に言われることであって、多くの場合は「やってみなくても判る」のが普通である。

だから「やってみなければわからない」は、多くの場合「できる可能性がある(高い)」という意味に近い。特に、本人がそう思うとき、断言はできないがそれはたいてい達成できる。それは、本人でなければ計算できない様々なファクターを、ちゃんと計算しているから。
 他人からはどう思われていようと、こと自分のことに関しては、医者や心理カウンセラーなどより自分の方が深く知っている、と無意識に自信を持っているのが、命あるものの自然の姿だ。

「できるかな?」と感じたら、「できる」と思ってまずはやってみよう。簡単に、などといい加減なことは言わないが、きっとできる。これは「意思」とかの問題ではなく、自分の全感覚が弾き出した「計算の結果」だから。他の何よりも信頼できるデータじゃないですか?

「初雪」を描く

「初雪(那須にて)」
現場写真

昨夜から今朝にかけて関東の山沿いにも初雪があったらしい。いよいよ当地は当地なりの「冬」の到来だ。那須岳(茶臼岳)を撮った写真があったので、初雪をテーマに描いてみました。実際この時も初雪だったように記憶しているが、確信はありません。

下が現場写真。車を路肩に寄せ、運転席から撮ったものだと思っていたら、どうやら誰かに載せてもらい、助手席から通りすがりに撮ったものらしい。たしかに(自分が撮るなら)写真の構図としても中途半端な位置取りだ。あえてこれを何とか絵にしてみることにした。

写真になくても道の想像はつくが、あえて道はぎりぎり入れないことにする。大きな変更は「電柱」の大きさと位置。電柱のサイズを小さくしたぶん、山が大きく感じられるような気がするのですが、どうでしょうか(実際、比率的にも大きくしてあるが)。左に(実際にもあるが)林の一部を追加して、視線が左から外に抜けてしまうのを防ぎます。

空と雪の明暗を逆転。雪の白さを強調しました。これで「初雪」がテーマであることがはっきり伝わると思います。山裾には意識的に赤味の色を加え、「秋の終わり感」を表現しています。ただ、山全体はもう少し軽く描いて、距離感を出した方が良かったかなあ、とも感じます。