雲を描きたくなってきた

ここ数回、怠けて絵を載せず、雲の写真ばかりでごまかしているように見えるが(そして、実際その通りなのだが)、実際に見るとカメラを向けずにはいられない。わざわざ写真を撮りに出かけるわけじゃなく、ウォーキングの帰りに遭遇してしまうだけ。汗びっしょりになっているのだが、その瞬間は汗も止まってしまう感じがする。

一番下の写真など、ただの日没などではなく、ミサイルでもぶつかった瞬間にさえ見えそうだ。何が理由で、こんなに雲、夕焼けが凄く感じるようになったのか、少し考えてみた。

①空気が澄んできたー環境対策が進み、公害問題が騒がれていた頃に比べ空気がきれいになってきたことは確か。大気汚染が進行中のインド、中国、韓国などに比べると、東京の空気は格段に「澄んでいる」といわれるらしい。②わたしの眼が変化した―加齢による視力低下が、なぜか夕焼けがきれいに感じるような生理的条件を作った―それもあり得る。でも、写真でも凄くないですか?③若い頃は夕焼けを見たり、雲を見たりしている時間が無かったから、新鮮に感じる―要するに年をとって暇になったから、じっくり見るから?それもあり得る。むかし10年ほど続けた雲のシリーズを再び描いてみようか、などとも考えている。

ウォーキングしていると気になることがある。落ち葉が多いこと。枯葉ではなく、まだ青い、あるいは黄色がかった葉がたくさん落ちている。今年の渇水のせいだろうか(関東の一部だけかも)。ともかく、植物も葉を落として身を護らざるを得ないのだろう。死んだ蝉も見るようになってきた。先日、クマゼミが大勢かと書いたが、落ちている蝉はすべてアブラゼミ。偶然なのか、二種の蝉の活動時期が若干ずれているかどうかわからないが、ミンミンゼミも含め、他の蝉の死骸が目につかないのも不思議な感じがする。

九州の豪雨災害

「無題」 ペン

8月10日から熊本から長崎を中心に、九州北部から山口へと1~2本の線状降水帯が貼りついたようになり、豪雨災害が発生しているというニュースが途切れない。少し前にも同地域から山陰にかけて、また北陸、新潟などの日本海側にも大雨があったばかりだ。

経験と対策は蓄積されている。ただ、自然というものは、時に人間の努力のはるか上を行く。
 これだけ毎年のように災害に晒されるなら、どこかもっと災害の少ない県などへ移住する人が増えそうな気もするが、現実はそうではない。学校とか仕事とか、いろいろ事情があるには違いないけれど、結局地域に対する愛着のようなものがそれを上回っているのだろうと思う。

わたしはそうした心情を理解したいと思うけれど、一方で不憫であるとも思う。わざわざ苦労する必要などないからだ。災害対策においては、つい予算と効率ばかりに目がいきそうだが、こうした数字に出にくい心情なども、数値化、視覚化する研究、制度がもっと必要だと思う。

雲が凄過ぎる

夕焼け雲の写真を撮っていた
強い風が吹いてきた
雲がずんずん大きくなっていく
あの雲の中はどうなっているのだろう

先日「夕焼けが凄過ぎる」という記事を書いた(7月3日)が、今度は凄過ぎる雲を見てしまった(8月8日)。恒例の広島原爆の写真を何度もメディアで見せられ、しかも明日は長崎原爆の日という夕方、自転車で帰宅中、急に背後から強い風が吹いてきた。自転車を止め、振り替えると、上がテーブル状になった雲が、覆いかぶさるように急速に湧きあがっていた(上から2番目)。原水爆のイメージが一瞬脳裏に浮かぶ。

上が層状に、平らになる雲自体はそれほど珍しいものではない。積乱雲の上端が対流圏界面(成層圏との境目。両極や赤道上など場所などにもよるが、高度6km~17kmといわれている)に達すると、雲はそれ以上高くなることができず、横にテーブル状に広がっていく、いわゆる「かなとこ雲」で、この雲もそういうものだということはすぐに分った。つまり、雲を成層圏近くまで押し上げるほどの強い上昇気流がそこにある、ということだ。

見たことがない、と思ったのは一番上の雲が、スカートの襞を上下逆にしたような、襞状になっていることだった。そしてはっきりと分かる三段積み。さらに下から四段目の雲も頭を出し始めた。これは帰宅までに降られるに違いない、悪くすると雹(ひょう)になるかもしれないと、覚悟した。

けれど、そこまでだった。それ以上迫ってくることはなく、ゆるく広がっていくだけになった(といっても、この大きさだから、両端は凄い速さで広がっているはずだ)。原爆の(ような)雲を、よくキノコ雲と呼ぶが、これも初茸や一本シメジのようなかたちをしているから、キノコ雲といったら紛らわしいだろうか。
 不気味でもあるが、夕陽を浴びて雄大に広がる様は、神々しさをもまた感じさせた。