アネモネ wind-flower

アネモネ(水彩)

春らしい色合いのものが何かないかと花を探しに行ったが、チューリップくらいしか目ぼしいものがなかった。フリージアは大好きな花だが貧弱なのしかなく、ガーベラもまだ早い。そうしたなかで、アネモネとラナンキュラスが一場を飾っていた。

アネモネもわたしの好きな花であるが、葉っぱが少し面倒だ。コスモスも葉が描きにくい。ラナンキュラスなどは花も葉も見るにはいいが、複雑すぎて描くのには躊躇する。青系統の花が特に好きだが、青紫の大輪のアネモネがあったが、ちょっとかたちが単純すぎる。ベージュ色のエレガントなのにも惹かれたが、モチーフ的にはこれかなと求めてみた。白い花の中心には深い青紫。

アネモネの語源の「アネ」は「風」という意味らしい。春風が吹けば咲く花、ということなのだろう。ちなみに「アネ」は「風=息」という繋がりから、息をするもの=命=生き物となり、動物アニマルの語源でもあるそうだ。動くもの=アニメーションもそこから来ていると何かの本に書いてあった。
 制作を動画にするために撮影の準備を始めた。専用スタジオがないので、まず片付けから始めなければならない。カメラと、とりあえずあるだけの照明器具をセットして、いざ撮影開始―なんと、花が閉じてきた!

まだ、新鮮な花なのだろう。夕方になり、ちゃんと眠りに入ろうとしているのだ。さすが「アネ」ではあるが、描く方としては開いていてもらいたい。けれど、「命」を尊重して、開いたのは開いたときということで、今回は眠りの様子を描くことになった。

夏夕立(なつゆだち)

Jangle girl (CG)

夕方のウオーキング中雨に降られ、びしょぬれになった。先月に続き、今年二度目のびしょぬれだ。二度ともなぜか白っぽいズボンを穿いているとき。ズボンが透けて、下着まで見えてしまう。女性だったら大変。こいつは夏用の薄い作業ズボン。汚れてもいい気楽なものだが、悪い運を背負ってしまったらしい。雨の上がった玄関前でそいつを脱ぎ、外のバケツに叩き込む。You! Fire! (おまえはお払い箱だ!)と宣告。トランプ前米大統領のように指を突き出して。そのあとは青空まで出た。

今朝の段階では、暑くなるが上空に寒気が入り込み不安定になる。ところによりにわか雨があるかも、という予報だった。ウオーキングの前、空を見上げると、暗い色の雲が広がっていた。

スマートフォンで雨雲レーダーを確認。1時間ごとの動きをモニターしてみると、雨雲はすでにほぼ通過していて、そのあとはしばらく雲はないことを確認して外に出た。歩き始めのぽつぽつもすぐに止み、涼しい風の中を2㎞ほど歩いて市街地をはずれた。田んぼ道にさしかかるころ、再びぽつぽつと落ちてきた。振り向くと嫌な感じの雲がおおきな絨毯のように広がっている。おまけにその中で稲妻が光っていやがる。しかし、単独の雲で、その周囲は雲が切れていた。

妖しい感じの雲なので、背景か何かに使えるかもと、写真を撮った。風が急に強まってきたが、頭上の雲はその一個だけ。風はさらに強まり(わたしは風が大好きだ)、涼しさを感じているうちに、雲は頭上を通り過ぎた。「もう雨の心配はない」と思った直後、ざあーっと音がして雨粒が急に大きくなった。田んぼの向こうが急に霞みはじめ、振り返ると市街地もぼんやりしたシルエットになるほどの雨の強さ。上にも黒い雲など無く、明るく白い、靄のような雲だけ。そんなとこからこれほどの雨が降ってくる?「狐の集団嫁入り?」なんて、この現象を表現しつつ、天気予報としては正解と認めてUターン。すでにシューズはぐじゅっぐじゅっと鼻を鳴らし、ズボンは透け始めていた。

耳のかたち

「木立ベゴニア」(CG) 絵は本文には「馬耳東風」です

わたしにとっての七不思議のひとつは、ヒトの「耳のかたち」。猫や牛や馬、象の耳だとまったく不思議さは無いのに、なぜかヒトの耳のくるくると丸まったかたち、そのかたちへの成り立ち方(進化の合理性)がどうも想像しにくいのだ。

耳を、音(または空気)の波を感じる器官とすれば、耳は魚にもある。もちろん鳥にもある。爬虫類にも昆虫にもあるどころか、ミミズクにさえ?あるという(植物にもあるという学者もいるが、ここでは深追いしない)。魚の耳は、その頭の中にある内耳というところが、ほぼヒトの耳に近い働きをするらしい。他にも側線という、体の両側、鱗の下を頭から尾まで一本の線のようにつながった感覚器官で微妙な水圧の変化などをキャッチするのだが、ここでも人間の声ぐらいは感知できるらしい。ほかにも浮き袋で外部の音を増幅させて、体内の神経を通じて内耳で聞き取る魚もいるというから、魚は何個も耳を持っているともいえる。

硬骨魚類には頭の中に耳石というのがあって、これで水中での姿勢を保っている。余談だが、化石ハンター、岩石ハンターならぬ、耳石ハンターという趣味をもつ人たちが、魚種ごとにかたちの異なるその耳石を収集、そのかたちの美しさを自慢しあうというマニアックな世界もあるらしい。—ヒトの三半規管にも(ヒトだけでなく、おそらくほとんどの動物に)耳石があり、ほぼおなじ機能を持っている。これが剥がれ落ちたりすると、眩暈(めまい)が起きる。メマイしながら泳ぐような魚では、エサを捕ることなど当然できない。「人間に生まれて良かったあ」と「めまい外来」のあることを神に感謝したくなる。

鳥の耳は目立たない。が、羽毛を搔き分けてみると、ヒトの耳とほぼ同じように頭側にぽっかりと穴が開いている。ミミズクというフクロウの仲間は、鳥の中では例外的に耳が外に突き出している。それがミミズクという名の由来になっているのだが、眼よりも音を頼りに獲物の位置やサイズなどを判断する生活様式から考えると、空気抵抗を割り引いてもそれなりの合理性があるだろう。—いずれにせよ、動物の行動様式や生態を考えれば、それらの耳のかたちの成り立ちが、それなりに納得できるような気がする。

なのに、ヒトの耳はどうしてこのようなかたちなのか。勾玉(まがたま)に6というアラビア数字(我々が日々最もお世話になっている数字)を二重に掘り出したようなかたち(漫画の神様、手塚治虫の登場人物の耳)に、どんな合理性があるのだろうか。人物スケッチをするたびに感じる、長年の「不思議」である。