数学

      「椿の実」  ペン

椿の実(と種)はいつ見ても宇宙を、というより「真理」というものが本当にあるかもしれない、とわたしを虚心にさせる。

椿の実をバラしてみたことがあるだろうか。庭に椿を植えている人でも、もしかしたらそういう経験がないかも知れない。知らぬ間に実が弾け、種が地面に落ちてしまっていることが普通だから。
 でも、たまたま弾ける前の実を採っていたら、それを見ることができる。(視覚的には)極めて単純なかたちの種がそこに在るのだが、それらがどう繋がっていたのか、くっつけてみようとするとかなり難易度の高いパズルになる。たったこれだけの個数なのに、どれも微妙な凸面凹面を持っていて、それが立体である分、パズル好きにも十分楽しめる。

椿は花ももちろん美しいが、弾けた実殻と種の不思議な魅力にもわたしは深く魅入られる。そして、そこに美しい「数学」を感じる。特にその種には、それらが互いに似かよっているくせに同じかたちは二つと無い、ということを強く意識させられる。それはたぶん、カボチャやリンゴの種のように1個1個が独立せず、種どうしがくっついていることに依るからだろうけれど、それにしても一個一個のどれもが、鋭く無駄のない曲線、曲面を持ち、「生物学的」というよりは「数学的」と呼びたい美しさだ。
 オウムガイの螺旋とフィボナッチ数列との一致がよく知られている。そんな “数学的論理性” が椿の種にもきっとあるはずだ、と夢想する。

「不思議」は「理解不能」とは違う。それは別次元のことだ。不思議さというのは、一見すぐに理解できそうでいて、「考えれば考えるほど、さらにその先に引かれていくような深さ」のこと(そして最後にはちゃんと理解できるはず、と信じられること)。椿の種には「不思議100%」が詰まっている。
 数学は苦手だったが、子どもの頃にこんな不思議さを教えてくれる先生がいたら、今の1000倍くらい数学が好きになっていただろう、と思う。

熱すぎる「柿」

「柿の習作」  水彩

そろそろ秋めいて(欲しい)。そんな願いをお天道様はちっとも聞いてくれない、なんてグチを言っている間に、ちゃんと秋は忍び寄ってきて、自然はすでにその先の冬にもちゃんと備えている。出来てないのは「お天道様はちっとも・・」なんて、まるで昭和の時代劇映画の、娘っこのセリフまがいの、オラたちくれえのもんだっちゃ。

スーパーの店頭にはまだだろうと思っていたら、もう数日前に見た、という声があった。まあ、9月も半ばを過ぎたんだから、出てても不思議はないんだが。

というわけで、柿を描いてみた。ということは「写真から」のスケッチだってことになる。写真では4個の柿が、それなりの大皿に乗っている。その皿もれっきとした作家のものだから描く価値もあるのだが、ここではあえて省かせてもらった。こういうシチュエーションなら、昔風の「土筆(筆)柿」の方が似合いそうだが、残念ながら手もとにない。ときおり通りすがりの庭にその柿が生っているのを見ると、欲しいなあ、描きたいなあ、と思う。我が家の庭にも柿の木があったが、虫の害が酷く、駆除をしているうちに本来守るべき柿の木の方を傷め、枯らしてしまった。虫の駆除は素人にはかなり難しいんですね。

絵としては、もっと秋が進んで、日差しの熱も枯れてきた頃、秋の長くなった影を引きずった柿が,、消えかかる夏の炎を抱くように地面ちかくに佇む、そんな風情を狙ったのだが、現実世界はまだまだ35℃の猛暑日。とても「枯れた熱」どころか「真っ盛りの熱」だという「惨敗」感が露わ。この絵から、そういう「悔しさ」をゲットしてくれたら感激だ。

暑さを忘れて

「夏の或る日」  水彩

今年の夏は暑かった。関東でも8月一か月の平均気温が2.3℃も高かった、と気象庁から発表があった。東北から北海道にかけては同じ一か月で4.7℃も高いという。まさに異常気象というしかない暑さだった。

が、「だった」という過去形はまだ早そうだ。この先も関東以南ではまだ30℃以上の日が何日もありそうだし、猛暑日さえある得るという。その暑さを、こういう絵を描くことで凌ぐことができる。まさに絵の有難さ。描いている時は暑さも忘れている。

ここは鮭の絶好の産卵場所。適当な砂利底で、浅い割には常に魚影の濃い場所だったことも思い出した。