パーソナリティ

拙作「飛ぶ男」(F30 テンペラ)より、背景の一部分

その人らしさ。「個性的」と強調するほどでもないが、かといってまったくの金太郎飴でもない「その人らしさ」。パソコンで仕事すると、それがなくなると心配する人がいます。とくにAIがさらに浸透してくると、人間自体の存在感がどんどん薄くなっていくのではないかと。

かつては文書と言えば手書きしかありませんでした。しかし、中には個性的過ぎて読めないものもあったりします。日蓮上人の手紙などを博物館で見たことがありますが、一目で、良くも悪くも「この人は普通の人ではない」と思わせるほどの強烈な書きぶりに驚きました。一般の人が文字でやり取りするようになると、当然判読しにくいものも増えてきたでしょう。
 文字の美しさや、その人らしさを犠牲にしても、「読みやすさ」を優先してタイプライターが発明され、やがてワープロになり、現在はスマートフォンのボタンどころか音声をきちんと聞き取り、きれいな文字にして送信してくれます。
 けれど、一方で人間は画一性を嫌う生き物でもあります。たとえばその、フォント。読みやすい、使いやすいだけなら1種類だけですべて済みそうなものですが、あきれるほどたくさんの種類があり、ほとんどの人は時と場面によってそれらを自在に使い分けています。それは感情を伝えようとする本能からくるのでしょう。人間はコミュニケーションをとることで文明を築き上げてきたのですし、そのコミュニケーションのもとは「共感」なのですから、ある意味当然のことでもあります。

コンピューターの専門家たちは「パーソナリティが大事」「最後はその人らしさ」とよく言います。コンピューターが「その人らしさを無くす」という考えと、180度逆です。どういうことなのでしょうか。ワープロなら、同じキーボード、同じソフトに同じフォントでも、打ち込む文章は人それぞれ。あたりまえのようですが、それをコンピューター全体に広げても同じことだと言えるのでしょうか。わたしにはとてもそうとは思えません。そこには「慣れ」の問題があるからです。
 そもそもワープロを始めて使った頃、文章云々の余裕などなく、使いこなそうとするだけで精一杯。「使いこなしているうちに」だんだん自分の方に意識が還ってきて、「自分らしい」文を考えられるようになってきたのではなかったでしょうか。
 けれど、コンピューターを「使いこなす」のは、はっきり言って「無理」。パソコンはただの道具ではありません。しかも日々更新し、自分とのギャップが縮まるどころか、どんどん開いていく。「使いこなせる」日など永遠に来ないのです。

結局、コンピューターを使っても、その一分野だけ、たとえばグラフィックアートならそこだけ。そこに特化して「使いこなせ」るようになり、初めて「最後はその人らしさ」と言えるだけではないでしょうか。「コンピューターで自分の世界が広がる」は、一種の幻想ではないのでしょうか。自分が知らなかった、できなかったことをコンピューターで知ることができ、やることができる。その意味では確かに「自分の世界が」広がったように感じるでしょう。でも、それ以外のところではむしろさらに谷は深くなり、断絶は厳しくなってくるのではないでしょうか。「その人らしさ」の伝わる分野は一層狭くなり、時には極大化されて、「その人らしくない」その人らしさが広がっていくのではないでしょうか。

リハビリ

Apple-たそがれ(制作中 8/15):下半分、考えを練り直しているところ

手指の強張りが強くなり、素人療法で“リハビリ” を始めました。強張りの強い2本の指、左右の中指を逆ぞりにするストレッチです。“素人療法” とはいっても、ネット上で効果があるとお医者さんが勧めているものです。やってみると、一時的にせよ指が真っ直ぐになり、そのあと特に痛んだりもしないので、なんとなく良さそうだという感覚が頼りです。

2か所の整形外科へ行ったのが1~2年前。どちらも判定は「腱鞘炎(けんしょうえん)」。指の腱を通す鞘(さや)が変質し、腱との摩擦で炎症を起こしているということです。使い過ぎが原因とされますが、絵画制作で酷使していた頃は何でもなく、パソコン作業が多くなってからなので、最初はリウマチかと思いました。パソコンでは指を酷使する印象が自分では全然なかったのです。ばね指が強くなってクリニックに行ったのですが、その時点でで腱鞘炎としてはだいぶ進行していたことを知りました。
 塗り薬を貰い、リハビリとしてレーザー光線を当てる治療をやったのですが、クリニックでの時間を費やす割には効果を感じることができず、2~3ヵ月で止めてしまいました。

大きなサイズの絵を描くと、指がパソコンの時とは違って様々な動き方をします。力の入れ方も大きな強弱があって、単純に押すだけのキーボードとは全然違います。結局、それが一種の“マッサージ” になるのか、何となく気持ちがいいのです。絵を描くのは、時に指を酷使する瞬間はあっても、使い方が変化に富み、ワンパターンにならないことを再認識。

それで、あらためてストレッチをやり直してみようという気になりました。参考例を見ると、①指反らし:10~30秒×20回を朝夕2セット=30秒なら全部で20分 ②指曲げ:10~30秒×20回を朝夕2セット=同20分 とあります。全部で40分。片方だけでも20分ですから、レーザー治療(7分)よりはむしろ長いのですが、「待ち時間」がありません。
 最低2ヶ月は継続。忘れなければ、ときどきご報告いたしましょう。

手 Hands

8/12(土)アップロードしました

毎日手を使って生活しているのが当たり前で、わたしだけでなくほとんどの人が「いま手を使っているぞ」などとは意識しないでしょう。意識するのは怪我や病気などで一時的に使えなくなるときくらい。あるいは楽器演奏などで、譜面通りに指動かすことができないもどかしさ、工作などであと一本指があれば!とか思うときくらいでしょう。

手は、便利というよりかけがえのないもので、これが人間を他の動物と隔てる壁になっているようです。手が「手」になっているのは人間と「類人猿」だけです。けれど、それ以外の動物もきっと「『手』が欲しい」とは思ってもいないし、それで満足しているはずです。人間だけが手の便利さを知っているから、手が失われたとき、それを補うための道具を考え、そして何より「作れる」のです。さすがに「類人猿」でもそれはできません。

それが「文化」「文明」の力なのでしょう。思想や技術の蓄積、つまりは歴史。人間だけが「歴史」を持っていると言えば、一瞬、そんなことはないと感じるかもしれません。でも、どんな恐竜がどの時代に生きていたかを、人間が作った物差しの中で照らしてみることができるのは人間だけだ、と理解すれば意味は伝わるでしょう。恐竜の骨はたんに「物」であるだけで、それ自体は「歴史」ではないからです。恐竜学者が新しい骨の発掘にワクワクするのは、人類の「新しい歴史」を自分が創っているからです。

もしもわたしたちに手がなければ、すべては「お手上げ」状態で、食事さえままなりません。うまく鳥を捕まえたとしても、ワニのように丸呑みするか、脚で抑えて口で翅をむしり、何より「生きたまま」食べなければなりません。あるいは屍肉か。ほとんどの野生動物がそうしているように。あるいは植物の実や葉を求めて季節ごとに移動しなければ餓死してしまいます(しかも歩いて)。魚など食べることはほぼ一生できないでしょう。そして、歴史を持たないまま絶滅します。
 最近、手の指がだんだん曲がったままこわばるようになり、ことさら手のことを考えるようになりました。