「青柿」 水彩、ウォーターフォード紙(荒目)

絵のモチーフとして玄関に置いてある青柿もだんだん黄色になってきた。しばらく雨模様の日が続き、そのせいか気温もグッと下がった。昨日、今日は晴れたが太陽にももう夏のようなエネルギーは無く、秋らしい爽やかさが一年ぶりに戻ってきた。

この青柿を頂く前に、すでに赤い柿をたわわに吊り下げている木がいくつもあった。たぶん柿の種類が違うのだろう。甘い実は西欧でも人気があり、特にスペインでは生産も盛んで、中国に次いで世界2位の生産量だという。
 ウィキペディアを見ると北海道南部から九州までのほぼ日本全域に育つとある。松尾芭蕉に「里古りて柿の木持たぬ家もなし」という句があり、そのまま読むとウィキペディアの記述と一致するかのようだが、かつては福島県以北では柿はほぼ生育できなかったと記憶する。東北を旅した「奥の細道」の作者には生産限界が見えなかったのかもしれない。

柿は「カキッとしてなくちゃ柿ではない」という人が結構いる。硬めのカキカキ、シャリシャリの食感が命、ということだろう。わたしなどは北国育ちだから、木に生っている柿の実物を見たことがなかった。流通の悪い当時では、そんなカキッとしたものは手に入るはずもない。内側が甘くトロトロになりかけたやつしか食べたことがなく、それが柿というものだと思っていた。今でも、どちらかというとカキッよりはトロッの方が好きである。

スケッチは水彩だけでなく、アクリル絵の具を下地として少し使っている。水彩だけにこだわらず、効果があれば何でも使えばいい。今見えている効果を、水彩だけでやろうとすると案外大変なんじゃないかな。

二紀展、独立展を観て

昨日(10月20日)、乃木坂の国立新美術館で二紀展と独立展を観てきました。旧知の作家が二人も黒リボンつきで展示されていたのが悲しく、寂しい。

展覧会は団体展であれ、個展であれ、一種の体力勝負の場でもあります。集中力、研究心さえ体力がなければ続きませんから、体力も “実力” の一部であることは間違いありません。体力がないと展覧会を観に行く事さえできません。地方に住んでいる人はそれに加えて財力もないと、東京の展覧会に出品はもちろん、観に行くことさえかなりの負担です。
 団体展の会場では図録も売っているし、ある程度の団体ではホームページなどで会場作品を公開したりしていますが、絵を描く人は、実物作品を自分の目で見る必要が絶対にあります。一本の黒い線がどんな材料で描かれているのか、どんな下地にどのくらいの速さで引かれているのか等々、図録などではまったく分からないのです。

でも、それはそういうところに出品する人たちの話。一般の人は、むしろ大づかみに色やアイデアを楽しんで欲しいし、描く場合でもそんなふうにのびのび描いて欲しいものです。もともと絵は他人と競争するようなものではないでしょうから。

楽しく、のびのびと子ども心のままに描き、その積み重ねが知らず一つの高みに達する、というのが理想ですが、そんなこと、誰にでもできることではありません。都会の展覧会へ無理しなくても、小さなスケッチブックを持って、あるいは図書館から画集を借りて、絵に親しむ機会を増やすだけでも意味はあるんじゃないでしょうか。
 天才たちの作品や、展覧会の作品は、それぞれの道すじでの道案内のようなものなんです。

青柿のスケッチ

     「青柿」  水彩

今日はぐずつき気味の天気だったが、涼しいのは良かった(人によってはかなり冬支度に近い人も診かけた)。青柿が、赤い柿より絵になりやすいことは先日書いてしまったので、今日はそれについては書くことがない。とりあえずスケッチを載せる。青柿だから、柔らかくなりすぎるとか、食べるための心配は無用だから集中できる。

たったこれだけのスケッチでも、意外に時間がかかる。そして面白味がない。だからスケッチなどしない、と言う若い画家たちの話もすでに書いたことがある。それも然り。とくにわたしなどは、発表する作品はもっとずっと単純なかたちで、誰にでも描けそうなものを目指しているから、スケッチとのギャップはなおのこと大きい。

けれど、それを無駄だと思ったことはない。むしろ、年に数回の発表より、そういう普段のことの方が大事だと考えているから、たぶんこういうふうに正面から見えるように描いてみることが、自分にとって本質的なことなのだろうという気がする。

一生に一度も個展を開かず、一枚も絵を売らない画家もいる。だからといって、その画家を「単なるアマチュア」と言っていいかどうか。その画家が亡くなった時、多くの(それなりに知れた)画家たちが、作品を貰いに来たそうだ。