明けましておめでとうございます

散歩道から見る富士山。右には赤城、日光。振り向けば筑波山がどっかり見える
元旦。微妙な雲の出具合

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

最近、気が向けばぶらぶらと、近くの田んぼ道などをひと回りしてくることがある。元日の朝はどうだろうと、行ってみたら、ぽつぽつとウォーキングの人たちがいる。顔も名前も知らないが、何人かは身体が傾いていたり、歩き方に特徴があったりで、あの人だなと分かることもある。ひとり、そばに軽トラを停めて農作業をしている人もいた。世間の慣習に流されない、マイペースの人なんだな、きっと。

散歩の時間は「考える時間」。考えが堂々巡りすることが多いけれど、堂々巡りしているうちに、ポロっと木の実が落ちるように、上からアイデアが降ってくることがある。

今はそんなのを悠長に待っている時代じゃない。AIに「アイデアを呉れ」と要求する時代だ、という。考えるより先に結果を求めるということか。AIの進化は、たぶんもう誰にも止められない。人間はどんどん不要な存在になっていきそうだ。明るいのか、暗いのか、微妙な雲が前方にかかっている。

「感動する」ことに感動

               「目の前に転がっている奴さ」   ペン

「感動する」って、よく言われるし、よく聞く言葉でもある。わたし自身は、つとめて「感動」という言葉を “使わないように” 、使わないようにと、意識してきた。感動という言葉は、わたしにとって「命」という単語に近い重みを持っているので、そうそう簡単には使えなかったのだ。

でも、人間なら誰しも感情を持っている以上、「感動しない」なんて有り得ない(でしょ?)。そういうこともあって、「感動」ってことを、あらためて考えた。

個人的な感動体験だけで論評するのも問題だとは思うけれど、他人の「感動の中身」についてどうこう言えるほど、わたし自身に心理学的、医学的知見がないので、自分自身をモルモットに、話を進めさせていただくことにする。
 よくよく、自分の「感動体験」を思い出してみると、その直前では「心の状態がフリー」だったような気がするんです。「感動」には、ある種の衝撃を受け入れる「心の余裕」、隙間があったような気がするんですよね。

言いたいことは、すでにお察しのとおり、「心の余裕」ってことですが、それは「(生活の)余裕があれば感動できる」って意味じゃないことなど、言わずもがな。この(難解な?)ブログを見てくれている人に、そんな馬鹿などいるはずはない。が、もしも「体力的に限界ギリギリだったらどうなんだろう?」とは思っていたから、そういう体験記(談)にはなるべく接しようと心がけてきた。
 人間って凄いです。命が失われるその瞬間まで、「感動」を述べた人々の記録は、山ほどあるんですよね。人間の「感動するさま」に、あらためて感動する思いです。

メリークリスマス

    「聖夜(部分)」  水彩

今日はクリスマス。朝、濃い霧の中の農道を自転車でひと回りしているあいだ、スマートフォンのラジオからずっとクリスマスソング。そうか、ヨーロッパはまだイブなんだ。

先日の絵をワンサイズ大きく、YouTube用に改めて制作してみた(現在編集中)。思ったより時間かかったわりに、準備がいい加減だったので、仕上がりもそれなり。自業自得だからそれはそれでいいが、こういう誰もがやるようなことではなく、拙くてもいいから、もっとオリジナルのアイデアを掘り下げ、かたちにしなくちゃなあ、と一年分の反省が濃縮されて胸に迫ってきた。

おかげで、ケーキもほんの一口しか食べる気にならず、脂肪が増えつつある身体のためになった。現実と想像を適当に組み合わせで描いた。