鉛筆、「削って」ますか?

              「ブリキの鳥など」 黒、青、茶色のペン

各種文書の申請やアマゾンなどのネットショッピング等、文字は専らキーボードによるタイピング入力だけ(スマホならタイピングすら無い)とか、日常のことで鉛筆、ボールペンで文字を書くことがほぼなくなった、という人も多いのではないでしょうか。毎日日記を書くような人でも、いつのまにかペンからキーボードに替わったりしていないでしょうか。あなたは鉛筆を「削って」ますか?

幸い?かどうかは判らないが、わたしは絵を描く都合上、鉛筆もペンも日常的に使う。それでも、たとえば鉛筆の消費量は子どもの頃に比べたら1000分の1くらいに減っていると思う。

アイデアを考えるとき、モニターとキーボードでは用が果たせない。ペンや鉛筆の先と紙との接するところにしか、「掴めそうなアイデア」が浮かんでこないのだ。ペンタブレットもあり、それで制作中の作品の修正や、目先のアイデアを考えたりすることもある。でも、そこはなんだか “居心地が悪い” 。

単なる「慣れ」の問題ではなさそうだ。手や指から脳にフィードバックされてくる感覚とキーボードとモニターによる感覚とでは、これまでの経験とが行き会う脳内での場所が異なる、という感覚がある。時には同じような風景が見える場所だったりするが、時には全く違う風景が見えている、そんな感じ。ともかく、鉛筆やペンの先から伝わってくる微かな摩擦感が心地いい。

立冬

          「ミルクカップと小さな玉ねぎ」 ペン

立冬。暦の上では今日から「冬」。だけど先月末頃から何度か急に寒くなる日を繰り返したので、気分の上ではすでに冬。セーターも着ているし。11月にセーターを着るなんて数年前なら考えられなかったが、筋肉が無くなってきたぶん、熱源も失われたということ。もう少し筋トレをして筋肉つけなくちゃ。

一日のスタートは、夏も冬も、温めた一杯のミルクから始まる。飲みながらのスケッチで手をほぐす。冬の朝日を描きたいが、早起きは苦手。雪があれば夜明け前でも起きていけるんだけどな。雪が恋しいまま冬に入る。

手でさわれるもの

          「いま机の上にあるもの」  黒と茶色のペン

バーチャル、フェイク、AIという単語に慣れ過ぎて、既に「そういえば昔聞いたなあ」感がある。それにSNSとかYouTubeも加わるだろうか。とにかくそういうものが当たり前すぎて意識すらされなくなってきている。

けれど、それらはみな「画面(モニター)上」にあるものばかり。世界中の美味しい食べ物も、美しい自然の景観も、憧れの有名人もみなモニターの上だ。何万もの「いいね!」がついても、食べることも、その空気を吸い込むことも、その人の手を握ることもできないし、それを「共有」するという幻想もまたモニターの上。

自分の目の前に在るのは少し固いキャベツの千切りにアジフライ、ところどころ剥げかかってきたカーペットだったり、ちょっと?くたびれた妻や夫であったりだが、それらはみな、自分の手でさわることができる。自分の身体と直接繋がっている。
 バーチャル、フェイク、AIもYouTubeもうたかたの夢に過ぎない、とまでは言わないし、そこに大きな価値があることもある程度は知っている。ウーバーイーツで頼んだものでも、届けばちゃんと手でさわれ、美味しく食べることができる。シークレットサービスが唇の前に人差し指を立てても、それを誰かの飛行機が到着する前にSNSで知ったたくさんの好奇心がカメラを構えて待っている。うたかたの夢どころか、それが現実の一部であり、その仕組みに「さわれること」はむしろ危機を生む。
 でも、さわれないことはやっぱり、嘘を生みやすい。

手でさわれるものには信頼感がある。それは単なる感傷ではなく、生き物の知恵の塊だったから。一方、一見さわれるつもりでいる、たとえば調味料の成分、○○酸◇◇だのには実際はさわれない。だから嘘が混じりこむ余地がある。自分で買った昆布や椎茸、鰹節でつくった出汁なら、嘘の入りこむ余地はずっと小さくなるだろう。
 紙にペンで描いても。デジタルで描いても、どちらも絵であることは間違いない。けれど紙に描いた絵は、紙もインクも手でさわれるモノであるのに対し、後者はデータ(数値)というさわれないものが、絵という仮面を被っているという違いがある。―蛇足だが、「紙に描いた絵」だって「絵に描いた餅」という仮面ではないか、という一種の混ぜっ返しは、この場合論理的に正しくない―
 なんでもアナログが良い、などと言うつもりはない。それぞれにそれぞれの場があることが大事だなあと思う。